あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

文学フリマを振り返って

 

悔しかった。その一言に尽きるのかもしれない。売れたのはせいぜい25冊前後、それも知人友人を含めた数で。別に売れたいと思って文学フリマに参加した訳ではないと思っていたけれど、モノレールで浜松町に向かう帰路、予想以上に気落ちしている自分がいて、そんな自信過剰な自分に少し呆れた。

 

おもしろくないな、と感じることがある。

 

時間を持て余した結果、段ボールから取り出した初めての自分の小説(今となってはそうとも言い切れないような駄文)を読み返しつづけて、私はがっかりした。読みづらくて目が滑るし、場面展開が早すぎるし、手グセでつなぐ語彙の粒は既視感を与えるものばかり。辟易するほど誤字脱字も多くて、こんなの売れなくて当然だよ、なんて思ってしまうくらいだった。小説を推敲するのを後回しにしてきた理由は、おそらくここにある。書いたものに自信を持てなくなればなるほど、頭の中にある平凡とにらめっこする度、「私一体何のために」という疑問に心を支配されてしまうから。

 

私は書くことが好きだ。他の部分が全部ダメでも、好きなことなら他の誰より情熱を傾けられると思っているから、皆の前で先生に長所を褒められた劣等生みたいに、わかりやすく、その一点のみに誇りを持っている。だけどまだまだ、足りないのだと思う。不足を補ったり、突き抜けたりする方法は良く分からない。だけど私の前を素通りしていく人々の視線の動き方を見て、ああ、私の作品はたぶん、私が密かに思いつづけていたとおりにおもしろくないのだと思った。

 

それでも今のところは、まだ打ちのめされていなくて、誰かの為に、とかじゃなくて、自分の為に、書くことを諦めたくないし、諦めるべきじゃないと思っている。底の見えない海に眠っている宝物と出会い、心を震わせつづけたい。いつか、ふと読み返した時に、ふかく胸を打たれるような文章を紡ぎたい。もし、指の先で、そんな魔法をかけることができたなら、その時ようやく私は初めて、魔女にかけられた呪いを解くことができるのかもしれない。身体と心をがんじがらめに縛り付ける鎖を断ち切って、この1LDKの狭くて暗い部屋の中から、光の方へと走っていくことができるのかもしれない。

 

「おもしろいって、どういうこと?」

 

答えの出ない命題を、繰り返し、何度だって、自分に問い続けたい。

私を生かしてくれた表現という化け物と、誠実に向き合っていく為に。

 

第二十五回文学フリマを振り返って。

来てくださった方、本当にありがとうございました。

 

 

友だちについて

 

友だちについて。

 

中学生のとき、お父さんから手渡されたのは「きみの友だち」という本だった。朝日新聞の書評で取り上げられていたらしい。のめり込むようにその本を読んで、そして憧れた。同時に私は、主人公ふたりの女の子の関係性に、間違いなく嫉妬していた。

 

その頃の私は、いわゆる多感な時期というやつで、親も同級生も先生も家庭教師もみんなみんな死んでしまえばいい、明日なんて永遠に来なければいいと思っていた。彫刻刀を握りしめて机に消えない傷を掘っているような反抗期テンプレ中学生だった私は、恋人よりかわいい顔より頭の良さよりとにかく何より、私の話をうんうんと聞いてくれて、本当はね、私もずっとそんなことを考えていたんだよねと手を握ってくれる女友だちが欲しかった。

 

ドラマや映画で語られるような友情は真冬に飲むホットココアみたいにあったかく私の心を溶かしてくれたから、孤独の中でぐんぐん育っていく親友のことを喉から手が出るほど欲していた。でも、これは本当に悲しいことなのだけれど、高校生大学生社会人になっても、私には本当の意味、つまり私の感覚を自分のもののように感じてくれるという意味で、精神世界を繋げることのできる友だちとの関係はあまり長続きしなかった。私たちは永遠なはずだと信じていた友だちとの間にもやがて距離ができてしまったり、ふたりなら何処にでもいけると信じていた関係が卒業と共にゆるやかに終わっていくありきたりな一過性の友情だったりした。

 

それでも、心が浮き立つような蜜月がとう終わった今でも、その内の何人かは、わがままで甘ったれで連絡不精な私と、未だに連絡を取ることを試みてくれていたりする。そして驚くことに、不安になりながら会ってみればあの頃と変わらず、もちろん種類は違えど、その女の子のことを大切に思えたりする。そういうことがある度に、私は、友情って一体、何なんだろうなと思う。恋愛と似ているけれど、やっぱり何処か違う。その子のことを考えると、胸の中にぽっと灯りが燈るような、棘やささくれのない、手放しにやさしい感情。

 

お父さんからもらったあの本に「友だちってなんなのか?」という命題を突きつけられた中学生の頃から、私はそのことについて、ぐるぐると考え続けているような気がする。人生が旅であるなら、私は今でも、心の一番深いところまで分かり合うことのできる友だちを探しているのかもしれない。互いだけの世界でべたべたし続けるなんて不健康だよ、友情なんてそういうものだよと誰かに諭される度、分かり合うなんてこと、手をつなぎ続けることなんて、本当はできないのだとしても。それでも私は、この世の不条理に争いたくて、魂の片割れを探さずにはいられないのだ。出会った途端、パズルのピースが噛み合うみたいに、私たちならぜったい分かる。運命的な恋よりも、生涯につづく友情の方が尊いもののように感じる気持ちを、この世界の何処かにいるあなたなら、きっと分かってくれますか。

 

 

「銀杏BOYZ 日本の銀杏好きの集まり」感想

今日のために生きてきたと思う。

 

夢みたいなライブが終わって、突然現実に投げ出されて、他の情報を頭のなかに入れたくなくって、はやる気持ちで夏の蒸し暑い夜を駆けた。

 

かつて峯田和伸は泣き虫で甘ったれで愛されたがりなわたしの神さまだった。XXXは全員死んでしまえばいいと思っていたわたしを唯一、許容してくれる人だった。何十年と生きているくせに童貞少年のピュアなところを持っていて、いつでも自分の愛や恋や性についてロマンチックに歌い上げる。夢や平和やつまらないと嘲笑されるワードを本気で信じているところも、そのストレートな愚直さで斜に構えた人間の態度をねじ伏せるところも、何も変わらない。彼のむきだしで個人的な音楽はそのまま、峯田和伸の一部分を構成しているピースなんだ。

 

「人間」を熱唱しながらステージへのぼる、生きている峯田和伸は幻想みたいで、10秒もたたずに心が反応して、あふれる感情に言葉を当てはめる前に涙が頬を伝った。生きていると時折、言葉をつむぐことがなんの意味も持たない瞬間に出会う。それでも人間が文字を学ぶことに意味があるとすればそれは未来の自分に今日のこの瞬間を思い出させて明日1日を生き延びさせるためだ。

 

XXもXXもXXもXXも全部許すから、明日1日を生き延びてくれと峯田は言った、そうしたらまた会えるからと言った。この世はクソだし生きづらい世界は全く変わらないし、苦しさも痛みも消えないけれど、明日を生きれば、真っ黒な世界に光を差し込んでくれる奇跡に出会う。サンプラザを出るとまんまるな満月が見えた。

 

いつだって大事に丁寧に抱きしめてくれてありがとう。