あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

はみだせないゆとりのなんちゃって自己分析

 

毎日、目覚ましをかけて朝に起きて、毎日、肌が触れそうなほど密着度の高い電車に乗り、毎日、8時間近く仕事をして、毎日、どんよりとつかれきった身体で家に帰る。ご飯を食べてお風呂に入ったら、自分が自由に使える時間といったら1日3時間もないだろう。一体日本のどのくらいの大人が同質の感情、生活、時間の中に生きているのだろう、と思う。退屈な灰色をしていて、変化もない代わりに危険もない、ルーチンな平和。働くってなんなんだろう、と学生の頃から考えていた。自分の時間を引き換えに、生活していく為のお金を得ること。そんな風に割り切れたらどんなに楽だろうと思うけれども、できない。

 

いつか編集者になるのが夢だった。編集者になって、おもしろい本をつくりたいと思っていた。漫画を専門とする小さな編集プロダクションでアルバイトをして、そのまま社員になれたらラッキーだなあとぼんやり考えていたけれど、そんなに簡単に事は運ばなかった。タイトルにあるように思い切れない私は大きなミスをしない代わりに、大きな利益を生むこともない。わざわざ雇うほどの価値はそのときの私にはなかったのだろう。そして多分今もない。全然ない。

 

はみだせないコンプレックスというようなものが、昔から私にはある。何か特別なもの、それは能力だったり夢だったりすると思うけれども、そういうものに手を伸ばすためにはそれなりの覚悟がいる場合が多い。持っている何かを捨てて、持ってみたい何かを得る、シンプルなつくりだ。けれども私の思考は本当に平凡なのだと思う。頭ではいくら分かっていても、手持ちのカードを捨てないまま、手持ちのカードを増やしたくなってしまう。なぜそうなるのかというと、結局はこわがっているのだ。ボーナスがいくらかとか一年の内の休みが何日あるかとか、そういうぼんやりした安定となんとなく幸せになれるような予感を手放して自分が不安定になることが。本当にほしいものにこっぴどく振られたときに、自分が好きだったもののことを嫌いになってしまうことが。努力を貫けない中途半端な自分に、いやでも無理やり対面させられてしまうことが。あれこれ先回りしてこうなるかもしれないと何でもかんでも心配しているけれど、結局一番こわいのは、自分だ。私は私が一番こわい。変わらない私、変われない私がこわい。

 

常識のある大人は、そんなあなたは仕事をやめるべきじゃないという。正直な大人は、そんなあなたは何者にもなれないという。誰に相談して、何を言われたとしても、結局は自分で決めるしかないということはわかっている。ぐずぐずだらだら悩んでも何も変えることはできないということはわかっている。わかっているなら自分で決めて、焦ってるなら自分で責任をとるしかない。何て重くて苦しくて楽しくない言葉なんだろう。責任。そうやってまたぐるぐるする。

 

つまらない身体と精神から抜け出して、ほしいものだけに手を伸ばせたらいいのに。何にも縛られず何処にもとらわれず、誰に何を言われても自分の欲望と美意識だけを信じられる、世界でたった一人しかいない鈍感なロマンチストになりたい。向こう見ずとも言えるような舵取りに迷わず思い切れる、そんな人に、ずっと憧れてきたような気がする。答えはまだ出ない。

 

私たちは決して分かり合うことができない

 

メンヘラという広範囲にわたるニュアンスの言葉は便利だ。あの子もメンヘラ、この子もメンヘラ。そうやって指差した途端、自分がその人間よりも上位に立つことができる。枠にはめて押し込んで俯瞰して、私たちはわかり合うことを放棄する。ところで私はよくメンヘラと言われる。そうなのかもしれないしそうじゃないのかもしれないがまあたぶんそうなのだろうなと思う。光よりも闇のほうが好きだし、破滅に向かってストイックに生きている人間ばかり見てしまう。

 

メンヘラな私をゴミ箱として使う人は多かった。擬似彼氏擬似友達擬似家族、どんなにがんばってみんなの代替物を演じたとしても私が愛されたがりなメンヘラであることに気づいた途端みんな面白いようにぱらぱらと散っていく。闇を通さない真っ白な光の部屋の中で先生は言った。あなたはありのままでは愛されないのだから努力をして自分を変えないといけないよ。変わらなければ私は愛されない、そうなのか、そうか、ではやっぱりディズニー映画のあの歌は虚構なのだなと思った。私のいる世界の中では、自分の欠点を矯正したり、苦手を向上させることはすばらしいということになっていて、そういった思想を素直に飲み込まなければ生きていけない。でも、変わるということは、今の自分を捨てるということだ。絶望をあきらめて、感傷を捨てるということだ。そんな風に今の自分とさよならして、PDCAを永遠に繰り返さなければいけないのなら、一体いつになったら私は今の自分をあいすることができるのだろう。そんな風だったから、私はずっと誰かに、私が私であることを許されたかったのだと思う。

 

いつも、誰にも許されないという不安に怯えていた。家族は言うまでもないが、友だちにも恋人にも、いつか「許されなくなる」という不安があったし、その不安を払拭できたことは一度もない。お姫様が王子様に救われるおとぎ話を読んでいて、すべてを見せた上で承認されるという露出狂めいた動作に憧憬を抱いたのは、もう随分も前のことだ。ありのままのきみが好きだという愛の言葉は世界にありふれているのに、私のありのままを許してくれる人はこの世界のどこにもいなかった。当たり前だ、こんなお荷物に構っているほどみんなは暇じゃない。人間は自分の人生を裕福にしていくために残された時間を精一杯使いたいのだから。だけど、時々、私のことを見ようとしてくれる人がいて、本当に時々、私もその人のことを見ようとしてしまうことがある。

 

たぶんきっと、私たちは決して分かり合うことができない。きみが私を分かってあげることができないのと同じくらい、私もきみを分かってあげることができない。それでも希望のような蝋燭に何かの間違いで火がついて、胸の中に燃えてしまうことがある。闇の中を照らすようなこの眩しい閃光が恋だというなら、きっと私は今この瞬間に、あなたに焦がれているのだと思う。どうしようもなく、気がふれてしまいそうなほどに、欲しいものがあることは幸福だと言い切りたい。私の全部をさらけ出してみたいし、あなたのことも全部知りたいし、つながりあえた奇跡みたいな瞬間の景色をあなたと一緒に見ることができたなら、この世界の悲しみも寂しさも、やり過ごしていけるような勘違いがきっと生まれるのだろう。そんなことを思ったのは、あなただけだから。ダメになったときの保険なんてかけないで、ちゃんと私の目をみて、本音だけで答えてよ。すり減ってすり減ってすり減ってぺらぺらになってからしぬんだろうなって思ってたけど、私、あなたになら消費されてもいいよ。傷つけられても、締め付けられても、たぶん、好きだよ。勘違いかもしれないけど、そう思う。

 

帰省

 

東京から新幹線で5時間、在来線に乗って1時間かけて、田舎に帰る。田舎という場所は合わない人間にとってはとことん息苦しい。少女だった私はいつでも不機嫌そうな顔をして、毎日のようにあの小さな町に対する憎悪を垂れ流していた。自分という生き物の持っている能力すらまともに直視できない私は、卒業をしたらこの町を捨てて、まっさらな状態で知らない土地に種を根付かせ、一人でのびのび自由に生きていくんだと、子供っぽく意気込んでいたような気がする。高校の修学旅行用にと買ってもらった赤いトランクケースをごろごろ引いて、駅の改札口から一歩出ると、傘を片手に持ったお母さんが私を待っている。幼い頃と全く同じように、変わらず私だけを待っているところを見たら、猛烈に悲しくなってしまった。これだから駅は苦手。

 

帰省の数日だけ、私はあの家の子どもに戻る。お母さんとお父さんの仲を取り持つために、わがままを言ってまるごと許される、傲慢な娘に戻る。あのふたりの間にどのような感情の高ぶりがあるのか、私はよく知らない。以前は干渉することが自分の使命のように受け止めて、やるべきことやるべきじゃないことを分別せずに見境なく首を突っ込んでいた。でもある日、親のことを考えている時間が自分のことを考えているよりも多いことに気づいて、もうそういうのやめようと思った。どうせ引き受けられないのだから、最初から甘えさせないほうが良い。そんな言い訳を考えながら、お母さんをあの人の元に取り残して、私だけがのうのうと息をしている。所詮私のあいしてるなんてその程度の偽物の愛情なのかもしれない。

 

2日目はいつも祖父の家に行く。いつ訪れても変な場所だと思う。祖父からも祖母からも生活の匂いがあまりしない。するのは暴力の匂いだけだ。あのふたりにみつめられると体中に力が入るから、別に強制されたわけではないけれど、私も弟も、いつしかふたりと敬語で話すようになった。世間一般で言うおじいちゃんの家は、もっと優しくて甘ったるい空気が流れている筈なのに、あの場所にはそんなのなかった。談笑がどんなに盛り上がっても、ぴりりとした雰囲気が決して消えなかった。

 

女であることを強制されるいちばんの場所も彼処だった。結婚はしないのかお見合い相手を紹介しようか仕事もいいが子育てこそが女の幸せ結局やってる仕事は腰掛けなんだろうそろそろ戻って介護資格でもとったらどうか今のままでは世間体が悪いだろう等々、粘りのある毒をはらんだ言葉の槍が体中を蝕んでゆく。長時間の移動後にどうしてわざわざ嫌な思いをしなければならないのかとひそやかに怒りながら、それでも私は年輪の増えた大木に意見する面倒を嫌って、おせっかいだと胸中で吐き捨てることしかできない。酒飲みの戯言だと流すこともできず傷ついたまま帰路につく、こんなことで尚も心揺らされる私はへなちょこによわいのだということを知る。

 

帰省をする度、発見させられることがある。子供の頃に戻ったり親との立場が逆転していて嬉しくなったりする。幼い頃は大きく見えたお父さんの背中が異常に小さく見えて不安になったりする。帰省する度、この場所を離れたくなくなり、帰省する度、東京の空気が恋しいと思う。田舎は鬱陶しくて、邪魔臭くて、それでも無下にできない魅力を放つ。心の片隅にはあの場所があって、いつか戦いに敗れるときの私に両手を広げて待っている。だけどまだ、あの場所へ帰るわけにはいかないのだ。何もできない空っぽな私のままで終わるなんてどうして許せるだろう。心から田舎を好きになるために、心から田舎を許すことができるように、夢や欲望を飲み込んだブラックホールみたいなこの東京という土地に精一杯私だけの根を張って、か細い子葉を育てていきたい。実が成るかわからなくても、意味なんてなくても、そんな風に光を見つめることしか、今はたぶんできないから。

 

コミュニケーション不全症候群

 

これはただの自己陶酔の話です。

 

 

いつでもきみに近づきすぎるか離れすぎる、私のコミュニケーションは0か100かしかない。だから私は好きな人に嫌われる天才。

 

気になる人にほど執拗に迫るし、相手のことを勝手に神様みたいに理想化して、そこからずれると途端にきみにがっかりする。きみが欲しくてたまらないのに、手に入ったら完全な終わりが怖くなって、わざときみを傷つける。縋り付かれるほど執着を感じるし、執着のない愛なんていらないから、泣き顔を見るまで何度も繰り返し。私はどうしようもなく自分勝手で、きみより誰より自分のことが好きだから、付き合った相手すべてをぼろぼろにしてしまう。私はきみに与えることなんてできない。私はきみから奪うことしかできない。そんな愛し方しか知らなかった。

 

こんな私はきっといつまでもふつうに幸せになることなんてできないんだろうし、そのことについて考えることは基本的に避けている。何故なら本当に至極厄介なことに今の自分をまるごと愛しているのは私だけで、変わることをおそろしいと感じているのも私だから。それでも時には好きな人が幸せであってほしいとか思っちゃうこともあるし、私ときみで幸せにしあうみたいな建設的な関係にも憧れちゃうことだってあるし、破壊衝動を捨ててこの瞬間的な幸せを持続させることにエネルギーをつぎ込んだならどれだけ楽になれるのだろうとも思う。でもそれは私の中ではちっともうつくしい関係ではなくて、余生の暇つぶしにしか見えなくて、本当に残酷で最低なことだけれど、2人の間にできた子供に自分たちの全ての時間を吸収されてしまうなんてそれこそ何より不毛だよなんてことを考えている、ずっと。

 

物語と違って、現実はちっともロマンチックじゃない。そこにあるのは達観と諦観の連続で、ぬるくて怠い退屈な日常が延々と続いていくだけ。そのことが本当に寂しくて切ない私はそれでも夢を見ようとしてしまう。先の見えない闇の中で、いつまでもあなたとふたりぼっちで手をつないでいたい。そんな甘美で不健康で満ち足りた夢、絶対に叶うわけないのに。まともになんてなれないならレンアイなんて高尚な所業から身を引いてひとりぼっちで生きたほうがいい。そうやって自傷するふりをしてきみの興味を惹こうとしているところもダサいし、本当にみっともないんだよ。どうして私は何ひとつ普通にできないのかな。もう全部苦しいし、何処にも救いなんかない、分かってたじゃんそんなこと。もう10年も前からずっと、同じところをぐるぐるとしているだけなんだから。

 

A子ちゃんの話

 

A子ちゃんは私の初めての女の子だった。

 

初めて好きだと思った女の子で、初めて永遠を誓った女の子で、初めて手放した女の子、それがA子ちゃんだった。きちんとA子ちゃんを愛せなかったせいで、きちんと恋を失うことができなかったせいで、5時間かけて新幹線に乗り故郷という場所へ赴くたび、私はいつも懲りずにA子ちゃんの面影に出会ってしまうし、その度ばかみたいに胸を締め付けられてしまう。待ち合わせて歩いた夕焼けの帰路、キスを交わしたツツジ畠、河川敷を駆ける二人乗りの自転車。あの小さな田舎町の至るところに狂おしいほど私のA子ちゃんが詰まっている。センチメンタルという自傷に抉られる度、A子ちゃんは永遠に癒えることのない私の傷口みたいだと思う。

 

A子ちゃんはそもそも、スクールカースト格下の私が近づけるような女の子じゃなかった。美術の授業でこわい女の子にはじかれたA子ちゃんが仕方なくぼっちな私とペアを組まされることがなかったら、遠いところで息をしていた私たちが交わることなんてなかったし、恋人みたいになるなんてそれこそ思いもしなかった。お互いの上半身の輪郭を筆でなぞっているときだって、私はただただあなたに攻撃されることを恐れていた。A子ちゃんのような、脳みそが筋肉でできているような女の子はいつでも私を傷つけるから。だけど授業が終わるとA子ちゃんは私のキャンバスを覗き込んで「何これ、あーしこんなに美人じゃないやん」って言ってふつうに笑った。A子ちゃんが描いた私も私じゃなかった。上手い下手とかそれ以前に、私は学校でこんなに明るい笑顔を浮かべて幸せそうに笑ったことなんてない。だけどわからないのなんて当たり前だ。だって私たちはそのとき、お互いのことを何も知らなかったから。

 

その日からA子ちゃんはなぜか透明人間の私に話しかけるようになった。もしかしたらずるいのかもしれないと思っていたA子ちゃんははじかれなくなったあとも私にちょっかいを出してくれた。私は徐々にA子ちゃんに懐いたし、A子ちゃんの愛情をもっともっと欲しがった。A子ちゃんは私の面倒な執着を受け入れてくれて、そればかりか、私のことが好きかもしれないという優しい勘違いをしてくれた。A子ちゃんだけが私を見つけてくれた。あの頃、A子ちゃんだけが、こんな私をぬるい地獄から救い出してくれる神様だった。

 

A子ちゃんは、運動ができて、勉強ができなくて、キャッチボールが趣味で、いつでもださいポパイのトレーナーを着ていて、キティちゃんの健康サンダルがお気に入りで、駄菓子の風船ガムが好きで、1日3食良く食べて(時には私の残した分まで食べて)、考えることが嫌いで、ショートカットが似合って、ガタイがよくて、ばかなことをして人を笑わせることが好きだった。A子ちゃんは私とはまるで違っていた。私とはまるで違うところが好きだった。おままごとな恋愛ごっこと言われても、本当にあなたのことがとても好きだった。

 

電車で2時間もかかる場所にある水族館のゆらゆら光る海月水槽の前で、いつか結婚しようねって約束をした。二段ベットの下で毛布にくるまりながら、死ぬときは一緒に死のうねって指切りをした。どうせそんなの叶わない約束だと達観することができない程に私は子どもで、A子ちゃんが私の為に指輪を買っていてくれたことなんて知らなかった。2人で迎える3回目のクリスマスイブが来る前に、私はあなたを手放したから。

 

そして私はやっぱり、あの小さな田舎町を捨てたし、A子ちゃんもやっぱり、あの小さな田舎町に留まった。私たちの奇跡みたいな交わりは偶然の産物でしかなく、絶頂は瞬く間に過ぎ去ってゆき、私たちは手をつないだまま下り坂を転げ落ちることしかできなかった。異物同士が穴を埋め合うなんてそんなのは夢物語だ。私たちの精神がまるっきり異なっていて、だからこそのさよならだったことも初めから予感できていたのに、過ぎ去った過去へのありふれた感傷などナルシスティックな所業だとわかっているのに、どうして私とA子ちゃんは今も手をつないでいられなかったのだろうと、何度も繰り返しぐるぐると考えつづけている。何の意味もなくても。

 

きっと今頃A子ちゃんは私なんかのことは忘れて一人で勝手にそれなりに平凡につまらない感じに幸せになってくれているのだろうし、そうでなければ私が困る。だけど私の手の甲に刻まれたA子ちゃんのイニシャルは一生消えないし、A子ちゃんの亡霊を探し続ける私の悪癖も治らない。来た道を振り返ってみればいつもあの子が私の名前を呼んでいる。だからA子ちゃんは私のファムファタルで、きっと一生忘れられない忘れたくない女の子なのだと思う。

 

 

 *

 

どこにでもある平凡な恋の始まりと終わりについて。A子ちゃんがよくカラオケで歌っていたスキマスイッチの藍という曲を聞きながら書きました。 

 

さよなら2017、はじめまして2018

 

さようなら2017年。今年はどんな一年だった?

閉塞と希望の一年だった。

 

学生という青春が終わり、憂鬱の箱に詰め込まれる社会人になった。私は何もできなかった。信じられないくらい役立たずで覚えが悪かった。私は頭でっかちで根性なしのつまらない人間だった。

 

職場には魅力的な人が多かった。一点に秀でていたり、地道に努力ができたり、誰とでも気軽に気楽に話せたりした。私には絶対できないことが、みんなにはふつうにできる。その差が多すぎて、大きすぎて、いくら頑張っても手が届かないように思えた。だけど同時に、それは努力ができない私の退屈な言い訳にすぎないのだとも思った。死ぬほど憧れて、それからやっぱり嫉妬して、最後には落ち込んだ。

 

私の持っている能力ではどうにもならないことばかりだった。精神がぐらつく度、同じところをぐるぐるして、ごねたり泣いたり諦めたりして結局、肥大化し続けていたプライドを過去に投げ捨てた。毎日、その繰り返しだった。一日がとても長かった。暗い顔をして会社に行き、唇を歪めて愚痴を垂れ流すような人間だけにはならないと思っていたのに、いつの間にかそんな人の気持ちが痛いほどよくわかるようになった。

 

感情を殺さなければ、うまく生きていけないのだと思った。PDCAサイクルを繰り返すたび、生産性や効率化を叫ばれるたび、愛している私のかけらが死んでいくのが分かった。

 

自分を変えたくなかった。変わっていくことがおそろしかった。だから仕事が終わって家に帰ったら、アルコールとため息の代わりに物語を書いた。物語の中で、私は私を傷つけるすべてのものと戦い、実体のない敵をこてんぱんにやっつけたかった。キーボードをつよく叩いている間だけは、背後に迫る恐怖から逃げられるような気がした。

 

物語のことをもっと知りたくて、シナリオセンターというところに通い始めた。私と同じように物語が好きでたまらない人ばかりだった。そこには共感と理解があふれていた。生まれて初めて言葉が通じたみたいな奇跡が、嬉しくてたまらなかった。中には私の書いたものを褒めてくれる人もいた。面と向かっておもしろいねと言われたのは初めてで、そのたった6文字だけで救われて、指が小刻みに震えた。15つの物語をつくって、その内の2つを文学賞に投稿し、もう2つは文学フリマで販売した。

 

ここが通過地点ならどんなにいいだろうと思う。ものになるかは分からなくても、光の方だけを目指して、無我夢中で走りつづけたい。神さま、どうか今だけは、この夢を終わらせないで。嗚呼、いつか、誰の手にも届かないところで、たった一人光りつづける孤独な星になれますように。

 

仕事はやっぱり辛くて、物語と戯れることもやっぱり楽しい。

 

その中でも、沢山のひとに出会って、知らなかった思想に触れた。ひとに甘やかされて、傷つけて、憧れて、痛めつけられて、がっかりして、無視されて、煽られて、振り払われて、それでも懲りずに好きだと思った。

 

私には自分以外の他人を大切にする方法がよくわからない。それでも、不器用でも、下手くそでもいいから、愛されるだけじゃなくて、ひとを愛してみたいと思った。ひとはずるくて、みっともなくて、だけどやっぱりかわいくて、恋をせずにはいられない。

 

たとえゴミ箱みたいに蹴飛ばされても、私はあなたのことが好き。

 

雪の降る夜が明けたらまた新しい年がやってくる。来年はどんな一年にしようか。大凶だって超大吉にしてみせるよ。感情の波みたいに、何処へ向かうか分からない、この起伏ある人生を愛してる。

 

初めまして、2018年。

こんな私だけど、これからもよろしくね。

 

 

 

2017年の「あいしてる」

 

【映画】

・「あゝ、荒野

・「わたしたち」

・「お嬢さん」

・「彼女がその名を知らない鳥たち

・「勝手にふるえてろ

・「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

 

【漫画】

阿部共実「月曜日の友達」

山本さほ岡崎に捧ぐ

・町田翠「ようことよしなに」

椎名うみ青野くんに触りたいから死にたい」 

紺野キタ「Lily lily Rose」

 

【演劇、美術、音楽】

・ままごと「わたしの星」

・長島友里枝「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」

銀杏BOYZ「日本の銀杏好きの集まり」

 

文学フリマを振り返って

 

悔しかった。その一言に尽きるのかもしれない。売れたのはせいぜい25冊前後、それも知人友人を含めた数で。別に売れたいと思って文学フリマに参加した訳ではないと思っていたけれど、モノレールで浜松町に向かう帰路、予想以上に気落ちしている自分がいて、そんな自信過剰な自分に少し呆れた。

 

おもしろくないな、と感じることがある。

 

時間を持て余した結果、段ボールから取り出した初めての自分の小説(今となってはそうとも言い切れないような駄文)を読み返しつづけて、私はがっかりした。読みづらくて目が滑るし、場面展開が早すぎるし、手グセでつなぐ語彙の粒は既視感を与えるものばかり。辟易するほど誤字脱字も多くて、こんなの売れなくて当然だよ、なんて思ってしまうくらいだった。小説を推敲するのを後回しにしてきた理由は、おそらくここにある。書いたものに自信を持てなくなればなるほど、頭の中にある平凡とにらめっこする度、「私一体何のために」という疑問に心を支配されてしまうから。

 

私は書くことが好きだ。他の部分が全部ダメでも、好きなことなら他の誰より情熱を傾けられると思っているから、皆の前で先生に長所を褒められた劣等生みたいに、わかりやすく、その一点のみに誇りを持っている。だけどまだまだ、足りないのだと思う。不足を補ったり、突き抜けたりする方法は良く分からない。だけど私の前を素通りしていく人々の視線の動き方を見て、ああ、私の作品はたぶん、私が密かに思いつづけていたとおりにおもしろくないのだと思った。

 

それでも今のところは、まだ打ちのめされていなくて、誰かの為に、とかじゃなくて、自分の為に、書くことを諦めたくないし、諦めるべきじゃないと思っている。底の見えない海に眠っている宝物と出会い、心を震わせつづけたい。いつか、ふと読み返した時に、ふかく胸を打たれるような文章を紡ぎたい。もし、指の先で、そんな魔法をかけることができたなら、その時ようやく私は初めて、魔女にかけられた呪いを解くことができるのかもしれない。身体と心をがんじがらめに縛り付ける鎖を断ち切って、この1LDKの狭くて暗い部屋の中から、光の方へと走っていくことができるのかもしれない。

 

「おもしろいって、どういうこと?」

 

答えの出ない命題を、繰り返し、何度だって、自分に問い続けたい。

私を生かしてくれた表現という化け物と、誠実に向き合っていく為に。

 

第二十五回文学フリマを振り返って。

来てくださった方、本当にありがとうございました。