あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

ウォークインマイクローゼット

 

洋服って、麻薬だ。ショーウィンドウで運命的な出会いを果たしてしまえばそれが最期、ドーパミンが脳内に大量発生。どんなに高価な洋服だって欲しくてたまらなくなって、そのことしか考えられなくなってしまう。10代からこれまで好きだったブランドは「X-girl」「JaneMarple」「BLUEMOONBLUE」「LIZLISA」「CandyStripper」「RNA」「HELLCATPUNKS」「SEXPOTReVeNGe」「BEAMSBOY」「MILK」「Supreme.La.La」...カジュアル個性派フェミニンガーリーを行ったり来たりで落ち着かない。飽きっぽい性格だからか、季節ごとに気分が変わってクローゼットを一新しがち、これまで洋服にかけたお金のことを思うと眩暈がする。

 

小学生の頃はおしゃれなんてちっとも興味がなくて、「それ何処で買ったの」なんて意地悪言われるような珍妙な柄のTシャツにジーンズ姿で、ぼさぼさ頭に赤いメガネをかけていた。色の組み合わせや生地の違いなんてよく分からないからテイストが全然違う服を着て、雑誌の付録についているサンバイザーやらウエストポーチをおざなりな感じで身につけるような、絶妙にダサい(ことにも気づいていない)女の子だった。そんなダサさが「恥ずかしい」ことなのかもしれないと感じる瞬間は割と遅めにやってくる。小学生の頃は許されていたのに、中学生になった途端いきなり許されなくなることがあるものだが、「洋服のセンス」はその内の一つだった。眉毛をぼさぼさに生やしているのが普通だった女の子がスクールソックスのワンポイント一つに拘りだす。つぼみの花がぱっと開くみたいにお洒落に目覚める同級生を横目に「自分もどうにかしなければ」と焦り出す私が手を伸ばしたのが「Zipper」だった。

 

自己主張は激しいが生身の人間が苦手なネクラ人間と「私他の人とは違うんです」的なツンとしたファッションはがっちり噛み合ってしまうものである。「KERA」「CHOKICHOKI」あたりの雑誌を読み漁っては、教室内のイキリ系サブカル女子としてキャラ立ちしようと試みる私はコロッケ倶楽部という田舎限定そこそこマイナーなカラオケ店で流れていた「リルラリルハ」のPVを一目見て一方的な運命を感じてしまう。当時の神様は「Zipper」表紙常連の「木村カエラ」だった。カエラちゃんになりたくて、なりたくてなりたくてなりたくて、古着屋で柄物のジャケットや派手なタイツやカラフルな小物ばかり選んで購入した。近所の美容院のおじさんに雑誌の切り抜き(「Snowdome」時のベリショ)を見せて、「こんな感じにしてください」なんて注文をつけて切ってもらったら、お母さんに「男の子になりたいの?」と真剣に心配されるなんてこともあった。生徒手帳の表紙を開くと、カエラちゃんとは似ても似つかない、カッコよくも可愛くもないがとにかく髪がめちゃくちゃ短くて、全世界の人間を信用してませんみたいな目つきでこっちを睨む不機嫌な女の子が写っている。そんな感じで呼吸していた当時、教室に行くのも勉強をするのも苦痛だったけれど、自分の好きなものや気に入っているものを身に纏うのは楽しかった。上手く他人とコミュニケートできない自意識にまみれた田舎のダサい中学生が、お洒落を楽しいと感じることができるようになったのもこの頃だ。それが例え似合っていなかったとしても、傍目から見てかっこ悪かったとしても、愛したいものを愛すること、そのこと自体が誇らしかったのだと思う。洋服は私自身を愛するきっかけを私にくれた。

 

洋服が起こしてくれたミラクルはそれだけじゃない。高校生のとき、ロックといえば「NANA」程度の知識しかなく、洋楽も聞かないし楽器も弾けないのに何故かパンクファッションにハマった。理由はただ一つ、隣の隣のクラスにいた女の子に一目惚れしてお近づきになりたかったからである。ウルフショートカットのよく似合うボーイッシュな彼女はいつもヘッドフォンで何かうるさめな音楽を聴いていた。初めて隣町の駅の雑貨屋で、彼女が好きなブランドの南京錠ネックレスを買ったときのことを今も覚えている。首元にそれをつける度に肌が赤くかぶれたけれど、赤黒白十字架骸骨、イカつくて格好いいモチーフを身につけているとよわい自分が少しだけつよくなれた気がした。パンクなファッションは抑圧に対する抵抗であり、自分の殻に籠るための武装であり、私を傷つける世界に対して翻すロックな反旗だった。そんなパンクファッションは一度だけ私に特別な奇跡を起こしてくれた。「EASTBOY」のスクールバッグに銀色の手錠をコンコルド代わりにつけていたら、帰り道に憧れの女の子が近寄ってきて「お揃いだね」と笑いかけてくれた。私たちは一度だけ放課後にデートをした。スクールバッグの手錠をお互いの手首につけて撮ったプリクラを卒業するまで携帯の待ち受けにしていたことをきっと彼女は知らないのだろうけど。

 

かわいかったりかっこよかったりするお洋服はきっと何者にもなれない退屈な私にいつも不思議な魔法をかけてくれる。ブリーチをかけて金赤緑に色を入れて、マーチンの3ホールに足を突っ込んだら、憂鬱な坂道が普段より色鮮やかに見える気がした。洋服が好きという気持ちは、今も昔も変わらない。突然電撃が走るみたいに、服のことしか考えられなくなるくらいのめり込む瞬間がやってきて、やがて波のように去っていく。その時々でなりたい自分見られたい自分のイメージは流動的に変わっていくから、これまで多種多様な洋服を着ては脱いできたけれど、これからだって全然違うお洋服を自分勝手に楽しみつづけられたらいいなと思う。できれば一生使える上質なものよりも、今この瞬間的に何よりも代え難く素敵だと心惹かれる洋服を纏っていたい。実用的であるとか、丈夫であるとかだけじゃなくて、そんな刹那的な感傷が似合う自分でありたい。

 

 

「ヤサシイワタシ」ヤエちゃんについて思うこと

 

ヤエちゃんはひぐちアサ「ヤサシイワタシ」という物語に出てくる女の子である。この女の子のことを考えると動悸と吐き気と頭痛の三大コンボに見舞われる。会ったこともないのに、話したこともないのに、というか私と彼女は同じ次元にはいないのに、こんなにも激しく共鳴してしまう女の子は世界にヤエちゃんひとりだけだ。破滅に向かって突っ走る、きっと誰かにとっての猛毒にしかなれない女の子。私のヤエちゃん。

 

「ヤサシイワタシ」は、ヤエちゃんの毒牙にかかった(かかりにいったと思うけど)主人公の男の子セリウくんが再生していくまでを描いた成長物語である。正直なところ、物語の完成度がどうとか読者がどう感じるかとかは抜きにして、私はセリウくんがいつまでもヤエちゃんのことを忘れずにいてくれたらいいのにと思っていた。もっとはっきり言えばセリウくんがヤエちゃんの後を追って死んでくれたらいいのにって。こういうところが結局私の今の限界で、現状に対する甘えで、受け入れられない理由なのかもしれないけれど。今回はヤエちゃんの話をしようと思う。

 

ヤエちゃんは、自分からブロックした癖についツイッターを覗きに行ってしまうような、目の前にいても目の前にいなくてもどっちにしろムカつく類の女の子だ。善悪の判断がしっかりつかないまま大人になってしまったから、恋人を両親の代わりに都合よく使用して依存しまくる。攻撃力が高いモラハラ女で、周囲の人間に死ぬほど厳しい言葉を吐き回っては人間関係をぶち壊す。その癖自分にはゲロ甘な努力嫌いで、なりたい自分になる為の地道な積み重ねができない。他人からの評価が全てだから、普通や退屈を憎んでいて、今の自分とは懸け離れた理想の自分をいつだって描いている。いつかちゃっかり誰かに見初められて特別な女の子になれるみたいなシンデレラストーリーを何の疑いもなく信じてる(ように見える)けれど、結局は自分が自分の望んだような人間になれないという絶望に殺されてしまうような、光と闇を行き交う宙ぶらりんな女の子。いつかこんな風になってしまうんじゃないか、一歩間違えたらこんな風になっていたんじゃないか、そんな不吉で不安な予感を抱かせるヤエちゃんのことを考えて、考えすぎて、何度眠れない夜を明かしたか分からない。

 

「いいことをいいって言ってやるしかない」「おれといれば?」と言ってヤエちゃんに寄り添い、手を差し伸べてくれるセリウくん。けれどヤエちゃんはセリウくんに「あー、気分が上向いたわー」と全然上向いてないテンションで答え、結局自分から死を選んでしまう。ヤエちゃんの最期が意味するのは「メンヘラと健常者はわかり合うことができない」というメッセージである。「ヤサシイワタシ」という漫画は残酷に容赦なく両者の違いをあぶり出している。ヤエちゃんが住み慣れた絶望を選んでしまったのは何故か。それは暴力や退廃の匂いにきっとおそらく美しさや安らぎを覚えてしまっていたからで、大好きな自分の世界を変えるのが怖かったからなんじゃないかと思う。私はそんなところも含めて、ヤエちゃんに惹かれてしまう。

 

死んでほしいくらい嫌いだったヤエちゃん、嫌いなのと同じくらい好きでやっぱり生きていてほしかったし、生き抜いてほしかった。理想の自分に殺されなければ今よりずっと楽になれる、そんな陳腐でありきたりな希望を私に見せてほしかった。写真で芽が出て承認されまくりかもしれないし、セリウくんとの子供ができて超安泰な家庭育めたかもしれないし、他人の評価に惑わされない価値観に身をおくことだってできたかもしれない。でも可能性の話なんて、渦中にいる人間にはそんなの意味ないんだよね。今自分には何にも見えないって事実が全てなんだよね。ヤエちゃんは結局生き抜けなくて、私は余生を生きている。

 

自分の願う姿で認められたい。自分のなりたい姿で生きていきたい。夢を見る為に、夢に殺されない為に、私は明日も生きていく。胸の中にヤエちゃんを育てながら、ヤエちゃんを慈しみながら、いつか私のヤエちゃんを、自分のちからで「ヤサシイワタシ」に変えてあげられるように。

 

邦ロックと私青春のエモ

 

「星」 

君は青く光るお星様、冷たすぎて寄る辺もない。驚くほど人に慣れていない君はひょっとしたら私よりも不器用な女の子。だってこの曲が終われば私は君を忘れるけれど、君はきっと私を忘れることができない。全部投げ出して会いに行きたくなるような恋を君はしたことがあるのかな。そういう相手にいつか出会えるといいね、そういう相手と愛を伝え合えるといいね。報われない気持ちほど忘れられない。私を分かりやすいって笑う分かりにくい君のこと思い出すのは何故かこんな星の煌めく夜ばかりだ。

 

「青色」

走り始めて少しずつ合わなくなるリズム、ドラムの上で無理矢理保っているぎりぎりのグルーブ。音の芯が分からなくなるまでもっと壊れてしまえばいい。そうすれば舞台の上で辱められて、私たちはもうだめなんだってことがやっと君にも伝わるだろう。いくら君のことが好きでも、私は君の付け合わせにはなれない。そんなの最初から混じり合えないのなんて分かってるでしょ。こんな偽物の音楽クソくらえだ、あはは力入れすぎたせいで一弦が切れちゃったね。いつからこんな風になっちゃったのかな、全部きっと私が悪いんだ。何年前のことまだ根に持っているような陰湿な女でごめんね。今まで楽しかったよ、じゃあねバイバイ。好きだったなんて言わないよ。

 

「銀河」

私の精神安定剤。カッターナイフとハルシオン援助交際。どんなにへんてこな音楽だって二人が弾くと全然尖ったところなくなるんだもん不思議だね。一緒に行った場所は数え切れなくて、一緒に過ごした時間は恋人よりも長くって。それなのに私たち、あの数年間なかったみたいに現在進行形猛スピードで離れていくんだね。いつかもう一度笑い合うことができるのかなんてこと考えるとまた胸がぎゅんぎゅん痛くなるよ。人はその時一番近くにいる人のことを友達と呼ぶのです。そんなことわかってる。みんなそれぞれ必死に生きてるだけなのです。それもわかってるうるせえよだけど。私は多分あなたたちみたいな友達は絶対に特別なんだ、あなたがもう私のことそんな風に思ってくれていなくても。気づいたときにはいつも取り返しがつかなくて、欲しかったものは全部両手で取りこぼしているみたいな人生だね。

 

「蛍」

緊張するときは目を閉じる。目を閉じればあの日につながるような気がする。私の青春はそれがすべてだった。すべてだと勘違いをさせてくれるような時間だったのだ。きっとずっと死ぬまで色褪せない日々のこと、あなたとそれだけでまるきり満たされていた心。私の人生絶頂なのだと気づかせてくれなかったのは神様の意地悪か。ドラムロールを合図に、血管が粟立つ。ショートカットを振り乱して、マイクにがなる。ディストーションを限界までかけたせいで、本物の音はとっくに分からなくなっている。どんなに練習をしたって、ソロをきちんと弾けたことなんてないけれど。でも、この叫びに似た旋律が、あなたの耳に届いていればいいなと思う。他の誰にも立ち入ることのできない閉鎖的な空間に私たちは立っている。音楽が鳴っている間だけは私たちは無敵になれる。女の子が女の子だというだけで不自由さを強いられる世の中だけれど、ギターのピックを握っている間だけは何だってできる。私の手をとってくれる君がいれば、何処へだって走って行ける。誰も見たことのない景色をあなたたちに見せてあげる。だから私のことを特別な女の子にしてください。どうか瞬きをせずに私を見て。私はあなただけの、たった一人の女の子になりたいのです。私の声が聞こえますか。君だけの絶叫を聞かせて。そのままのあなたが好きです。

 

 

拝啓、ボンタンアメ様

 

気づけば個人的なことばかり書いている。ある人に「自分のことを書き尽くしたら外の世界に目が向くはずだ」と言われたので、今はこのまま潜ってみようかと思っている。自分の見えない心の底へ、二度と浮かび上がれないくらいに深く。

 

誰も読んでいないと思うので少し恥ずかしいけれど、書いた小説もどきである「さよならノスタルジー」(カクヨムに掲載)はA子ちゃんへ、「スポットライトを浴びながら」(同省略)はボンタンアメへ向けた、渡せなかったラブレターであり、同時に離別の花束でもある。A子ちゃんとボンタンアメの二人のファムファタルは私の人生においてものすごい影響力を持っていた。ただし、二人が持つ魅力の種類はまるで異なっている。例えるとしたら、A子ちゃんは、いつでも人が集まってくるサーカス団の愛されピエロ。ボンタンアメは、どんなに突き放しても後ろをついてくる小さな妹。鬱陶しくて、でもやっぱり可愛くて、私には妹はいないけれど、もしも妹が居たらこんなふうだったんじゃないかなあと思っていた。もう二度と戻らない、過ぎ去った蜜月の頃。

 

人間関係を何かにつけ破壊してきたことについては弁解する余地もないけれど、遅かれ早かれボンタンアメとはやっぱりお別れすることになった気がする。ある部分において私たちは決定に噛み合わなかったし、与え合うみたいな関係を知らなかったし、最終的に彼女を傷つけて痛めつけられて放り出すことしかできなかった。滅茶苦茶になるのは私か、ボンタンアメか。この二者択一を迫られて、結局彼女の手を離した。初めから引き受ける覚悟なんてなかったくせに、醜悪で最低で非道な人間だ。私にしては珍しいことにこれは自己憐憫や正当化ではなく、反省しているつもりだ。

 

あの頃、私はめちゃくちゃカッコ悪かった。何がカッコ悪かったかって、「特別になりたい」とか「承認されたい」とか「夢をみる」といった類の言説をカッコ悪くてダサいものだと決めつけていたところが。朝井リョウ「何者」という小説に出てくる拓人そのもので、何者かになる為の努力の過程を綴る知人のツイートを見る度、苛々したり見下したり嘲笑したりしていた。今なら分かる。些細なことにあんなにも心乱されていた理由は、本当はあんな風に自分を信じられる子たちのことが羨ましくて、そっち側に行きたかったからなのだと。

 

努力しても特別になんてなれない自分の非力さを思い知らされるのが怖かった。中学校の頃教室に漂っていた厭世的な空気をいつまでも引きずって、「叶わない夢なんかみてばかみたい」だと周囲の人間から笑われるのが怖かった。星に手を伸ばしてもがく同年代の子たちを横目で見ながら、何もできなかったし、やらなかった。「夢をみる」勇気も覚悟も体力も全然なかったから。そんな生き方は本当にカッコ悪いし、みっともないし、恥ずかしくて、今思い出しても顔から火が出そうだ。ボンタンアメはそんな私のコンプレックスの起爆剤のような女の子だった。

 

人間は自分と全く違う人間と、自分と全く同じ人間、どちらかを愛する傾向にあるんじゃないかと思う。ボンタンアメが偽物で借り物で空っぽな私のことを丸ごと好きになってくれた理由はたぶん、自分と良く似ているから。当時自分のことが死ぬほどきらいだったからか、自分と良く似た思考のクセを持っているボンタンアメのことが鬱陶しくて仕方がなかった。わがままで、愛されたがりで、常に満たされず、ありのままの承認に飢えていて、自分以上に誰かを好きになることができない。自分の痛みには敏感なのに他人の痛みに鈍感で、うまく人とコミュニケーションをとることができないところなんかもそっくりだ。でもたぶん、私とボンタンアメは誰よりも至近距離にお互いを感じていた。一緒にいて穴が埋まらないことが分かっていても、あなたは私で、私はあなただったから。

 

とても少なかったけれど、夕焼けの海が穏やかに凪いでいるような優しい時間もあった。何てことない対話も、言葉のキャッチボールも苦手なんだなって手に取るようにわかるから、ボンタンアメが「ねえ面白い話して」と言う度、まるで自分を見ているようで吹き出しそうになった。一緒にいすぎて話すこともなくなってくると、ボンタンアメはいつも私の名前をふざけた風を装って何度も呼んだ。頬を膨らませて怒る目は怯えているようにも見えたけど、私はわざと名前を呼び返さなかった。何処までもつきまとってくる犬みたいな彼女のことがかわいくて、そんな風にボンタンアメをからかうのが好きだった。失恋したのは私じゃないはずなのに、今でもそんなことばかり思い出している。

 

私たちは良く似ていたけれど、一つだけ、違うところがあった。ボンタンアメには何よりも好きなことがあった。好きなことに向かって、無謀とも捉えられる挑戦をしようとしていた。自分の異常な部分を削って普通になるしかない、それが社会に出るということだと思い込むようにしていた私にとって、自分を変えずに好きなことで生きることを許されたがる彼女のそんな態度は鼻につき、同時に妬みの対象にもなった。私たちはお互いを批判したし、面と向かってひどい言葉を言い合ったこともある。たぶん、私がボンタンアメに言った言葉は、同時に私の方をも向くナイフだった。そんな致死力の高い喧嘩ばかりして、結局最後は絶交みたいなお別れをするしかなくなった。世界が狭くて、すごく幼くて、何にも分かってなかった。どうにかできたんじゃないかと何度も反芻をして、でもやっぱりできなかったと諦める。

 

あれからずいぶん時間が過ぎたのに、ボンタンアメが私に残してくれた忘れものは、胸の中で眩しく光ってちっとも消える気配がない。別れは一瞬なのに、彼女との出会いは永遠そのものだった。ボンタンアメという女の子の気配は、書く物語ほぼ全てに潜んでいるし、それだけ彼女は私にとっておもしろく(これは女の子に対してつかう究極の褒め言葉)て忘れられない女の子なのだ。やっぱり悲しいことに、私たちはもう終わったのかもしれないけれど、いつかもう一度会えるなら、そんな日がもう一度やってくるなら、同じ目線に立って、ちゃんと向かい合って、ボンタンアメの名前を呼べたらいいなと思う。なんて少し(かなり?)青すぎるだろうか。ごめんねとかありがとうとか見てるよとか見てほしいよとかもう全部忘れちゃったのとか、全然意味のないことを言って相変わらずだねと笑われたい。

 

最後に一言、ボンタンアメへ。ボンタンアメの生はそのまま、きっと私みたいな人間の希望なんだよ。だからどんなにみんなに否定されたって、私はボンタンアメをまるごと承認する。ありのまま生きようとしているから、ありのままのきみだからきれいに光るんだ。ボンタンアメが、今のままのかたちで、世界から肯定される女の子になれるように願ってる。誰よりも不器用で慢性的に生きづらいあの子の元へ、心休まる瞬間が、一瞬でも長く訪れますように。あの頃ばかな意地を張って伝えきれなかった愛を込めて。

 

ヘラってるのなんて分かってんだよ

 

きみみたいな人間生きてる価値ないよ。

 

本当はみんなそう思ってるんでしょう。通勤電車のおじさんの眉間に浮かぶくっきりしたシワ、芸能人の不倫騒動で荒れるツイッターのリプライ欄。みんな全然余裕ないし、身の回りのことで精一杯だからさ、他人の欠点に目をつぶれるわけないよね。フラストレーション溜まって、自分より価値のない人間を見下さないわけないよね。ぐだぐだ言わずに悪い部分があるなら努力して矯正しろよ、「自分たち」みたいに生きようとしろよって思ってるんでしょう。そんな目で見られなくてもちゃんと分かってんだよ。

 

でももう嫌なんだ。毎日を死んでるみたいに生きるのは嫌なんだ。私昇進とかキャリアいらないし、どれだけ生きづらくても鈍感にだけはなりたくない。だってみんなのいう「つよい」って、ネガティブな感情全否定のポジティブ教に自分を洗脳して、痛覚を切り落とすってことでしょう。感情の波を平坦に保ってすぐにスイッチ切り替えて、効率的にロジカルに考えるってことでしょう。プライベートと仕事はつながってるんだから、どちらかに真剣になればなるほど偏りが出てくるに決まってる。そして人間は知らない内に変わってしまう、気づけば取り返しがつかないほどに、中々元には戻れない。

 

人よりも動かされやすい感情感覚に誇りを持っている。そういう部分を失ってしまうなら、わがままだって分かってるけど、私はこのままでいい。嫌いなものを好きになったところでほしいものは手に入らない。それが自分の愛してる核だから、これだけは守りたい。百歩譲って他の部分は妥協したとしても、この核だけは変わることを拒否したままピーターパンに出会いたい。

 

そんな私はやっぱり間違ってるのかもしれない。自分のやりたいことをやりたいっていうのは甘えで、仕事を好きじゃないって発信すること自体大人になりきれてないってことなのかもしれない。だって最近、ものすごく不安定になりやすい。なりたい自分を考えていなくちゃ立っていられなくなりそうで、何度も同じことばかり言いつづけるみっともなさを客観視することができない。自己肯定感がみるみる間にすり減って、自分をちっとも信じられなくなる。才能なんてあるのかな。10年後も同じ努力をつづけられるのかな。未来ばかり志向したって欲しいものなんて手に入らないのに、それでも明日の自分に期待をしている。

 

今日、頑張らなきゃなと思う。死ぬほど、死ぬまで、そういう日々を覚悟する。そうしなきゃたぶん絶対、私が星になることはできない。

 

誰でもいいから生きていていいんだって言ってよ。コンテンツをつくれないならエンタメになるから、私のこと承認してよ。生きてるって思いながら生きたい。いつになったらそんな風になれるのかな。

 

私の目指すひかりはすごく遠くに見えていて、ちっとも手が届きそうにないよ。

 

 

ジェラシーと呪詛とひとすくいの光

 

何もかもうまくできる人、というのは一定数、何処にでもいる。そういう人は、勉強も、スポーツも、人間関係も、仕事も、趣味も、やることなすことすべて難なくこなすことができる(ように見える)。何もかもうまくできない人代表の私は、そんな人のことが羨ましくてたまらない。そうなりたいんじゃなくて、そんな人が持て囃されるという事実が妬ましいのだと思う。

 

一般的な価値観として、社会人として、正しい、正しくないの区別は、やっぱりある。その上で、人よりも尖っていたり、できなかったりする部分があるということは、苦しい。会社に入って成長するということは、ある一定の型に自分を当てはめなければならない(見せるといったほうが適切なのかもしれないが、どちらにしても根幹は同じ)ことだと思う。大方、会社が定義する「理想の社会人像」はそんなに大きくは違わない。人と気軽に話せて、改善点を見つけて努力ができて、苦しい節目に差し掛かっても前向きで、体力と精神力があって、すぐに気持ちを切り替えられる。棘もアクもない、明るくて元気でバランスの良いポジティブ人間。

 

誰かに言われなくてもわかってる。自分がそうなれないことも。そうなりたいなんて心の底からちっとも思っていないことも。大学の頃は思うがままに考えたり、感じることができたし、それが許される環境だったけれど、入社してもうすぐ一年が経つ頃になってようやく気付く。ああ、そういえばこの社会は減点方式で、鋳型にはめた多様性もどき程度しか受け入れてもらえないのだったなということに。

 

思考は制限できないと思っていた。誰に何を言われても、頭の中だけは自由だと信じていた。でも間違っていたのかもしれない、時間も環境も人間を変えていく。少しずつ、会社の定義する「理想の社会人像」が自分の「理想の社会人像」に近づいて、それが「理想の人物像」とイコールで結ばれかかっているのが分かる。望む、望まないに関わらず、1日8時間、会社にいる生活は私の心を変形させる。こわい。おそろしい。本当にどうしてこんなに生きづらいんだろうね。きっとあなたがこういう性格だからなんだろうね。そりゃそうか。でもできる限り、私は自分を変えたくない。それがどんなに下らなくても。

 

この考え方は、正しい、正しくないに当てはめたら、きっと正しくないほうにに傾くのだろう。ぐだぐだと並べてはいるけれど、単純に成長するということを諦める、つまりは努力を放棄しているだけではないのか、という声がすぐ耳横で聞こえてきそうだ。でも、そうじゃないのだ、多分。自分が本当に納得して、心からそうなりたいと思える「変化」なら、甘んじて受け入れる。結局、本気を出して考えたいのは、マンホールからのドブネズミの生存戦略。バランスのとれた人間だけが魅力的だと感じられるこの社会で、私のような人間がどのように生きていくべきか、ということ。日本中のどこかに、受け皿はあるのではないかと思う。そうじゃなければこの世に生きる希望なんてない。

 

心と身体を締め付けるような日々から飛び出して、どこまでも遠くに走っていきたい。後ろ向きな青春を終わらせないために、つまらない命を削って引き裂いて、線香花火の赤い玉を読み飛ばされる文章に注ぎ込みたい。なりたい自分はどんどん遠ざかる一方で、どれだけ手を伸ばしても掴めそうにない偽物の蜃気楼だけれど、手のひらが何度空を切ったって構わない。愛してやまないものの為に生きたい。

 

変わらずにいることは、変わろうとすることと同じくらい難しい。きみはいつまで絶望を愛し抜くことができるだろうか。きみはいつまで希望に迎合せずにいられるだろうか。きみはいつまで自分を貫くことができるだろうか。「成長」とか「変化」とかいうものを、誰かに評価されることを期待するんじゃなくて、私が、私自身が、うれしいものだと心から感じられたらいいのに。そうなるべきだとか、そうならなきゃいけないとかじゃなくて、あんな風になりたいとつよく夢見て、適切な努力ができる30歳に、40歳に、50歳になりたい。

 

光のアイドル

 

これまで私がアイドルに傾倒した経験は二度ある。一度目は「彼女」。薄氷の上に立っても尚舞台の上で舞い続けるぎりぎりの笑顔に狂わされた。二度目は「彼」。無理が垣間見えるほどの底無しの明るさに暗い幻想を見た。「彼女」も「彼」も、現実と妄想の間に存在する宙ぶらりんな私たちの気持ちを吸収して、身体を包む闇を打ち消して一層つよく光るアイドルだと思う。本当のことなんて決して分かる筈ないけど、本当のことなんて決して分かる筈ないから魅力的なのだ、たぶん。

 

アイドルって、一体何なんだろう。この問いに対して一体何人もの人間が仮説を立ててきたのだろう。アイドルはそれだけ私たちの知りたい欲求を掻き立てる存在であることは間違いない。先週末に観たとあるアイドルのライブが個人的に非常に衝撃的だったので、ここに書き記してみることにする。

 

ライブが始まって数秒立たない内に、「私は一体何を見せられているのだろう」という違和感が身体を貫いた。まず、歌詞の空虚がおそろしかった。表面的にそれっぽい言葉をつなぎ合わせただけの歌詞で、そこには意味もメッセージ性も現れない。心に引っかかる棘がない代わりに永遠に平坦に楽しんでいられる、砂糖菓子のようにさっと胸の中で溶ける音楽。歌うことに何のためらいもないのだろうかなんて邪推してしまうほどに、それは空虚な音色がした。

 

パフォーマンスがどうだったかというと、こちらもやはりふんわりと楽しいだけで、一秒空かず照らされるパチンコのような照明が浮ついた空気を守っていた。表情や言葉や立ち居振る舞いその全てが表層的でしかなく、平熱のままビジネス的に行進する舞台を見つめながら、多数派が手を挙げるメジャーの世界の中でトップアイドルとして生きることのおそろしさにめまいがした。内面を一切見せず、瞬きの一瞬の隙間にさえ仮面を脱ぐことなく、うつくしくきれいなまま枠の中を決してはみ出さない。自分たちのイメージを保ち続けて生きるアイドルたちは、私たちの欲望を飲み込んで光の中に立っている老成した化け物のように見えた。

 

舞台照明が落ちたあとも、私はあのアイドルのファンがあのアイドルのどこに心惹かれるのかがよくわからないままだった。自分たちが見たいものではなく、ふつうに生きている人たちが見たいものを見せるアイドル。平均で標準な欲望の覗き鏡は、それゆえに無個性にさえ見えた。彼らは闇を夢見る隙を観客に与えない代わりに、永遠に完璧な偶像として誰の手も届かない場所に光臨する。享楽的に軽すぎる存在を通して、私たちは何かを考えることができない。現実の人生の重さをひとかけらもまとわない代わりに、感傷を掻き立てられる部分が少なくて、だからきっと私はあのアイドルに傾倒することができないのだと思う。

 

こういったアイドルの消費のされ方は徹底的に美意識とは反するけれど、あのアイドルを包み込む不可思議な退屈さをこれだけ多くの人間が支持するのであれば、少しも勝ち目なんてないのではないだろうか。鋳型に詰め込まれて作られた人造アイドルは、日常系アニメを見ているときのような居心地の悪い不気味さを感じさせた。トップランナーとして走り続ける重圧が彼らをこんな風に生かしたのかは知らない。闇の見えない光だけの真っ白な世界の中で、あのアイドルたちは一体何を考えているのだろう。