あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

ジェラシーと呪詛とひとすくいの光

 

何もかもうまくできる人、というのは一定数、何処にでもいる。そういう人は、勉強も、スポーツも、人間関係も、仕事も、趣味も、やることなすことすべて難なくこなすことができる(ように見える)。何もかもうまくできない人代表の私は、そんな人のことが羨ましくてたまらない。そうなりたいんじゃなくて、そんな人が持て囃されるという事実が妬ましいのだと思う。

 

一般的な価値観として、社会人として、正しい、正しくないの区別は、やっぱりある。その上で、人よりも尖っていたり、できなかったりする部分があるということは、苦しい。会社に入って成長するということは、ある一定の型に自分を当てはめなければならない(見せるといったほうが適切なのかもしれないが、どちらにしても根幹は同じ)ことだと思う。大方、会社が定義する「理想の社会人像」はそんなに大きくは違わない。人と気軽に話せて、改善点を見つけて努力ができて、苦しい節目に差し掛かっても前向きで、体力と精神力があって、すぐに気持ちを切り替えられる。棘もアクもない、明るくて元気でバランスの良いポジティブ人間。

 

誰かに言われなくてもわかってる。自分がそうなれないことも。そうなりたいなんて心の底からちっとも思っていないことも。大学の頃は思うがままに考えたり、感じることができたし、それが許される環境だったけれど、入社してもうすぐ一年が経つ頃になってようやく気付く。ああ、そういえばこの社会は減点方式で、鋳型にはめた多様性もどき程度しか受け入れてもらえないのだったなということに。

 

思考は制限できないと思っていた。誰に何を言われても、頭の中だけは自由だと信じていた。でも間違っていたのかもしれない、時間も環境も人間を変えていく。少しずつ、会社の定義する「理想の社会人像」が自分の「理想の社会人像」に近づいて、それが「理想の人物像」とイコールで結ばれかかっているのが分かる。望む、望まないに関わらず、1日8時間、会社にいる生活は私の心を変形させる。こわい。おそろしい。本当にどうしてこんなに生きづらいんだろうね。きっとあなたがこういう性格だからなんだろうね。そりゃそうか。でもできる限り、私は自分を変えたくない。それがどんなに下らなくても。

 

この考え方は、正しい、正しくないに当てはめたら、きっと正しくないほうにに傾くのだろう。ぐだぐだと並べてはいるけれど、単純に成長するということを諦める、つまりは努力を放棄しているだけではないのか、という声がすぐ耳横で聞こえてきそうだ。でも、そうじゃないのだ、多分。自分が本当に納得して、心からそうなりたいと思える「変化」なら、甘んじて受け入れる。結局、本気を出して考えたいのは、マンホールからのドブネズミの生存戦略。バランスのとれた人間だけが魅力的だと感じられるこの社会で、私のような人間がどのように生きていくべきか、ということ。日本中のどこかに、受け皿はあるのではないかと思う。そうじゃなければこの世に生きる希望なんてない。

 

心と身体を締め付けるような日々から飛び出して、どこまでも遠くに走っていきたい。後ろ向きな青春を終わらせないために、つまらない命を削って引き裂いて、線香花火の赤い玉を読み飛ばされる文章に注ぎ込みたい。なりたい自分はどんどん遠ざかる一方で、どれだけ手を伸ばしても掴めそうにない偽物の蜃気楼だけれど、手のひらが何度空を切ったって構わない。愛してやまないものの為に生きたい。

 

変わらずにいることは、変わろうとすることと同じくらい難しい。きみはいつまで絶望を愛し抜くことができるだろうか。きみはいつまで希望に迎合せずにいられるだろうか。きみはいつまで自分を貫くことができるだろうか。「成長」とか「変化」とかいうものを、誰かに評価されることを期待するんじゃなくて、私が、私自身が、うれしいものだと心から感じられたらいいのに。そうなるべきだとか、そうならなきゃいけないとかじゃなくて、あんな風になりたいとつよく夢見て、適切な努力ができる30歳に、40歳に、50歳になりたい。