あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

拝啓、ボンタンアメ様

 

気づけば個人的なことばかり書いている。ある人に「自分のことを書き尽くしたら外の世界に目が向くはずだ」と言われたので、今はこのまま潜ってみようかと思っている。自分の見えない心の底へ、二度と浮かび上がれないくらいに深く。

 

誰も読んでいないと思うので少し恥ずかしいけれど、書いた小説もどきである「さよならノスタルジー」(カクヨムに掲載)はA子ちゃんへ、「スポットライトを浴びながら」(同省略)はボンタンアメへ向けた、渡せなかったラブレターであり、同時に離別の花束でもある。A子ちゃんとボンタンアメの二人のファムファタルは私の人生においてものすごい影響力を持っていた。ただし、二人が持つ魅力の種類はまるで異なっている。例えるとしたら、A子ちゃんは、いつでも人が集まってくるサーカス団の愛されピエロ。ボンタンアメは、どんなに突き放しても後ろをついてくる小さな妹。鬱陶しくて、でもやっぱり可愛くて、私には妹はいないけれど、もしも妹が居たらこんなふうだったんじゃないかなあと思っていた。もう二度と戻らない、過ぎ去った蜜月の頃。

 

人間関係を何かにつけ破壊してきたことについては弁解する余地もないけれど、遅かれ早かれボンタンアメとはやっぱりお別れすることになった気がする。ある部分において私たちは決定に噛み合わなかったし、与え合うみたいな関係を知らなかったし、最終的に彼女を傷つけて痛めつけられて放り出すことしかできなかった。滅茶苦茶になるのは私か、ボンタンアメか。この二者択一を迫られて、結局彼女の手を離した。初めから引き受ける覚悟なんてなかったくせに、醜悪で最低で非道な人間だ。私にしては珍しいことにこれは自己憐憫や正当化ではなく、反省しているつもりだ。

 

あの頃、私はめちゃくちゃカッコ悪かった。何がカッコ悪かったかって、「特別になりたい」とか「承認されたい」とか「夢をみる」といった類の言説をカッコ悪くてダサいものだと決めつけていたところが。朝井リョウ「何者」という小説に出てくる拓人そのもので、何者かになる為の努力の過程を綴る知人のツイートを見る度、苛々したり見下したり嘲笑したりしていた。今なら分かる。些細なことにあんなにも心乱されていた理由は、本当はあんな風に自分を信じられる子たちのことが羨ましくて、そっち側に行きたかったからなのだと。

 

努力しても特別になんてなれない自分の非力さを思い知らされるのが怖かった。中学校の頃教室に漂っていた厭世的な空気をいつまでも引きずって、「叶わない夢なんかみてばかみたい」だと周囲の人間から笑われるのが怖かった。星に手を伸ばしてもがく同年代の子たちを横目で見ながら、何もできなかったし、やらなかった。「夢をみる」勇気も覚悟も体力も全然なかったから。そんな生き方は本当にカッコ悪いし、みっともないし、恥ずかしくて、今思い出しても顔から火が出そうだ。ボンタンアメはそんな私のコンプレックスの起爆剤のような女の子だった。

 

人間は自分と全く違う人間と、自分と全く同じ人間、どちらかを愛する傾向にあるんじゃないかと思う。ボンタンアメが偽物で借り物で空っぽな私のことを丸ごと好きになってくれた理由はたぶん、自分と良く似ているから。当時自分のことが死ぬほどきらいだったからか、自分と良く似た思考のクセを持っているボンタンアメのことが鬱陶しくて仕方がなかった。わがままで、愛されたがりで、常に満たされず、ありのままの承認に飢えていて、自分以上に誰かを好きになることができない。自分の痛みには敏感なのに他人の痛みに鈍感で、うまく人とコミュニケーションをとることができないところなんかもそっくりだ。でもたぶん、私とボンタンアメは誰よりも至近距離にお互いを感じていた。一緒にいて穴が埋まらないことが分かっていても、あなたは私で、私はあなただったから。

 

とても少なかったけれど、夕焼けの海が穏やかに凪いでいるような優しい時間もあった。何てことない対話も、言葉のキャッチボールも苦手なんだなって手に取るようにわかるから、ボンタンアメが「ねえ面白い話して」と言う度、まるで自分を見ているようで吹き出しそうになった。一緒にいすぎて話すこともなくなってくると、ボンタンアメはいつも私の名前をふざけた風を装って何度も呼んだ。頬を膨らませて怒る目は怯えているようにも見えたけど、私はわざと名前を呼び返さなかった。何処までもつきまとってくる犬みたいな彼女のことがかわいくて、そんな風にボンタンアメをからかうのが好きだった。失恋したのは私じゃないはずなのに、今でもそんなことばかり思い出している。

 

私たちは良く似ていたけれど、一つだけ、違うところがあった。ボンタンアメには何よりも好きなことがあった。好きなことに向かって、無謀とも捉えられる挑戦をしようとしていた。自分の異常な部分を削って普通になるしかない、それが社会に出るということだと思い込むようにしていた私にとって、自分を変えずに好きなことで生きることを許されたがる彼女のそんな態度は鼻につき、同時に妬みの対象にもなった。私たちはお互いを批判したし、面と向かってひどい言葉を言い合ったこともある。たぶん、私がボンタンアメに言った言葉は、同時に私の方をも向くナイフだった。そんな致死力の高い喧嘩ばかりして、結局最後は絶交みたいなお別れをするしかなくなった。世界が狭くて、すごく幼くて、何にも分かってなかった。どうにかできたんじゃないかと何度も反芻をして、でもやっぱりできなかったと諦める。

 

あれからずいぶん時間が過ぎたのに、ボンタンアメが私に残してくれた忘れものは、胸の中で眩しく光ってちっとも消える気配がない。別れは一瞬なのに、彼女との出会いは永遠そのものだった。ボンタンアメという女の子の気配は、書く物語ほぼ全てに潜んでいるし、それだけ彼女は私にとっておもしろく(これは女の子に対してつかう究極の褒め言葉)て忘れられない女の子なのだ。やっぱり悲しいことに、私たちはもう終わったのかもしれないけれど、いつかもう一度会えるなら、そんな日がもう一度やってくるなら、同じ目線に立って、ちゃんと向かい合って、ボンタンアメの名前を呼べたらいいなと思う。なんて少し(かなり?)青すぎるだろうか。ごめんねとかありがとうとか見てるよとか見てほしいよとかもう全部忘れちゃったのとか、全然意味のないことを言って相変わらずだねと笑われたい。

 

最後に一言、ボンタンアメへ。ボンタンアメの生はそのまま、きっと私みたいな人間の希望なんだよ。だからどんなにみんなに否定されたって、私はボンタンアメをまるごと承認する。ありのまま生きようとしているから、ありのままのきみだからきれいに光るんだ。ボンタンアメが、今のままのかたちで、世界から肯定される女の子になれるように願ってる。誰よりも不器用で慢性的に生きづらいあの子の元へ、心休まる瞬間が、一瞬でも長く訪れますように。あの頃ばかな意地を張って伝えきれなかった愛を込めて。