あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

「ヤサシイワタシ」ヤエちゃんについて思うこと

 

ヤエちゃんはひぐちアサ「ヤサシイワタシ」という物語に出てくる女の子である。この女の子のことを考えると動悸と吐き気と頭痛の三大コンボに見舞われる。会ったこともないのに、話したこともないのに、というか私と彼女は同じ次元にはいないのに、こんなにも激しく共鳴してしまう女の子は世界にヤエちゃんひとりだけだ。破滅に向かって突っ走る、きっと誰かにとっての猛毒にしかなれない女の子。私のヤエちゃん。

 

「ヤサシイワタシ」は、ヤエちゃんの毒牙にかかった(かかりにいったと思うけど)主人公の男の子セリウくんが再生していくまでを描いた成長物語である。正直なところ、物語の完成度がどうとか読者がどう感じるかとかは抜きにして、私はセリウくんがいつまでもヤエちゃんのことを忘れずにいてくれたらいいのにと思っていた。もっとはっきり言えばセリウくんがヤエちゃんの後を追って死んでくれたらいいのにって。こういうところが結局私の今の限界で、現状に対する甘えで、受け入れられない理由なのかもしれないけれど。今回はヤエちゃんの話をしようと思う。

 

ヤエちゃんは、自分からブロックした癖についツイッターを覗きに行ってしまうような、目の前にいても目の前にいなくてもどっちにしろムカつく類の女の子だ。善悪の判断がしっかりつかないまま大人になってしまったから、恋人を両親の代わりに都合よく使用して依存しまくる。攻撃力が高いモラハラ女で、周囲の人間に死ぬほど厳しい言葉を吐き回っては人間関係をぶち壊す。その癖自分にはゲロ甘な努力嫌いで、なりたい自分になる為の地道な積み重ねができない。他人からの評価が全てだから、普通や退屈を憎んでいて、今の自分とは懸け離れた理想の自分をいつだって描いている。いつかちゃっかり誰かに見初められて特別な女の子になれるみたいなシンデレラストーリーを何の疑いもなく信じてる(ように見える)けれど、結局は自分が自分の望んだような人間になれないという絶望に殺されてしまうような、光と闇を行き交う宙ぶらりんな女の子。いつかこんな風になってしまうんじゃないか、一歩間違えたらこんな風になっていたんじゃないか、そんな不吉で不安な予感を抱かせるヤエちゃんのことを考えて、考えすぎて、何度眠れない夜を明かしたか分からない。

 

「いいことをいいって言ってやるしかない」「おれといれば?」と言ってヤエちゃんに寄り添い、手を差し伸べてくれるセリウくん。けれどヤエちゃんはセリウくんに「あー、気分が上向いたわー」と全然上向いてないテンションで答え、結局自分から死を選んでしまう。ヤエちゃんの最期が意味するのは「メンヘラと健常者はわかり合うことができない」というメッセージである。「ヤサシイワタシ」という漫画は残酷に容赦なく両者の違いをあぶり出している。ヤエちゃんが住み慣れた絶望を選んでしまったのは何故か。それは暴力や退廃の匂いにきっとおそらく美しさや安らぎを覚えてしまっていたからで、大好きな自分の世界を変えるのが怖かったからなんじゃないかと思う。私はそんなところも含めて、ヤエちゃんに惹かれてしまう。

 

死んでほしいくらい嫌いだったヤエちゃん、嫌いなのと同じくらい好きでやっぱり生きていてほしかったし、生き抜いてほしかった。理想の自分に殺されなければ今よりずっと楽になれる、そんな陳腐でありきたりな希望を私に見せてほしかった。写真で芽が出て承認されまくりかもしれないし、セリウくんとの子供ができて超安泰な家庭育めたかもしれないし、他人の評価に惑わされない価値観に身をおくことだってできたかもしれない。でも可能性の話なんて、渦中にいる人間にはそんなの意味ないんだよね。今自分には何にも見えないって事実が全てなんだよね。ヤエちゃんは結局生き抜けなくて、私は余生を生きている。

 

自分の願う姿で認められたい。自分のなりたい姿で生きていきたい。夢を見る為に、夢に殺されない為に、私は明日も生きていく。胸の中にヤエちゃんを育てながら、ヤエちゃんを慈しみながら、いつか私のヤエちゃんを、自分のちからで「ヤサシイワタシ」に変えてあげられるように。