あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

雛鳥と親鳥の鎮魂歌

 

わたしは一匹の雛鳥だった。親鳥から与えられるものを巣の中でただ口を開けて待っているだけの雛鳥。気づかなかっただけで、本当は気づいていたくせに気づかないふりをしていただけで、ずっとそんな風に生きてきたのかもしれない。この文章すらパフォーマンスに思えるような薄ら寒い反省文だ。

 

日を経るごとに、恋人のことを好きになってゆく。恋人の存在が、わたしよりも熱い体温や髪の毛の感触が、みるみる間に胸の中で大きく育ってゆくのがわかる。これまでだってひとりがさびしくて仕方がなかったのに、ふたりでいるときもひとりになったときのさびしさを想像してさびしくなってしまうのだから本当にどうしようもないし、この類のさびしさには限界がないのだなと思う。と同時にこわくなり、恐ろしくなる。さびしさのあまり、わたしはまた同じことを繰り返してしまうのではないかと思う。

 

人間関係において基本的にわたしは誰かに与えるということがうまくできなかった。それほど大げさでなくても、一緒にいると楽しくなったりする気持ちを抱かせてあげたいのに、自分の方がいつだって大事で、自分が楽しくなることを優先してばかりいた。恋人関係のような閉鎖的な関係になるとその傾向は顕著に現れた。振り返ると、被介護/介護関係のような歪なレンアイばかりしてきたから、与えるということがよく分からない。

 

恋人は与えられるよりも与えるという言葉をよく使う。自分の話をするよりも、話したがっているわたしを常に優先してくれたりする。自分を大きく見せようという気持ちから出た言葉ではなく、本当に心から思っているのだということが分かる。わたしはいつも恋人のような親鳥に助けられてきたし、道標のように頼りきってきた。今回も、そうなるのかもしれない。わたし自身が何も変わらないまま、何も変えられないまま、口を開けた雛鳥のまま、愛を与えられるのを待っているだけなら。このままこの問題をうやむやにするのなら、きっと。

 

不幸に酔うのは簡単だ、そうできるのはまだ余裕があるからだ、と恋人は良く言う。人間は分かり合えないものだよとも言うし、良い方向へ変わらなきゃいけないとも言う。頭ではその言葉が正しいと理解できる。その通りだと思い、納得するけれども、悲しいことや辛いことがあったときに、また同じ場所へ戻ってきてしまう。わたしに向かって大きく口を開けている闇は広大で魅力的に見える。真っ暗な狭い部屋に引きこもっていられたなら、ずっと自分の為だけに泣いていられる。何からも傷つかないし、傷つけられることもなく、ずっとひとりきりでいられるやさしい闇の世界はかつてのわたしだけの劇場だった。けれど、あの場所でスポットライトを浴びつづけたところで、観客が増えることはないのだ。カーテンは降りないし、拍手だって起きないし、誰の目にも映らない孤独な一人芝居。

 

破壊的ではなく、建設的に考えることを、自傷ではなく、成長することを、愚痴ではなく、よくする為の行動を、永続的な愛と理解を、ノンフィクションではなく、フィクションに求めるべきなのかもしれない。そういうところ迄、わたしは既に来ているのかもしれない。停滞も閉塞も抑圧もすべて言葉でぶっ壊して、きみの手を取って何処までもかけてゆきたい。誰も見たことのない景色を一緒に見てみたいし、知らなかった感情をいっしょにつくりだしてゆけたなら。わたしは今度こそ、壊れ落ちた鳥巣を見ても涙せずにいられるのだろうか。

 

その場限りのこうなりたいだけじゃダメなんだ。わたしが何かを叫んだところで、きっと世界は変わらない。本当に世界を変えたいのなら、それが先の見えない道だとしても、走って、転んで、それでも走って、走りつづけなければならないのだろう。書くことを、想像することを、決してあきらめたくないのなら。きみと、あなたと、つながりつづけることを、決して手放したくないのなら。誰かと心を通わせて、キーボードを叩き、口を開けたままの雛鳥と向かい合わなければならないのだろう。

 

いつか。きみが苦しまず、悲しまず、さびしがったりせず、嬉しそうに笑い、楽しそうにはしゃぎ、照れたように怒るような時間を、そんな時間が長くつづくことを、心の底から真剣に望むことのできるような愛を、いつかきみに捧げられますように。