あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

不幸と芸術の相関関係、目隠しと焦燥を超えて

 

「幸せになればきっときみはつまらなくなるだろう」、一体どれだけの◯◯志望者がこの呪いに苦しめられてきたのだろう?

 

日曜日、「リメンバー・ミー」という映画を見た。「家族の絆」を描いたアニメーション映画であるが、エンドロールで不覚にも号泣してしまう。この物語には幾つかの重要なテーマが隠されているが、その内の主題のひとつに、思い切り胸を掴まれてつよく揺さぶられたからだ。それは、一般的な「幸福」と、一般的な「芸術」は両立できる(可能性がある)というテーマだった。

 

考えてみれば、それは当たり前の提言だ。閉塞の絶望を超えて、自分の望む道を掴み取った人間は幾らでもいるのだから、幸せになったからといっておもしろい表現物を創作することができないとは限らない。それでもわたしは一般的な「幸福」が、一般的な「芸術」の成長を阻害する要因になる可能性はあるのではないかと考えていた。

 

自分の身に降りかかってきた不幸に酔っているときに紡ぐ文章はうつくしい。そこには治りかけの傷口のような感情が露見している。深夜に書きなぐられたラブレターが胸につきささるのと同じ、生身のむき出しの懸命さが何にも代え難くわたしたちの胸に迫ってくる。そういった陰のうつくしさを他の何より優先したいのであればきっと、人生の中のネガティブな要素は武器になる。家庭環境が荒れるほど、生活が貧困であるほど、精神的抑圧が大きいほど、うつくしい文章を書くことができる。だけどその道を選ぶのであればきっと、わたしたちは近い将来、化け物に変貌するしかない。最も身近にいる人間を傷つけずにはいられないモンスターに。

 

気持ちの悪いポジティブ教に結局敗北したのかと、知らない人間の笑い声が聞こえるようだ。それは答えのないジレンマだった。わたしは平気で人を傷つけて笑うような人間になりたくなかった。だけど、うつくしいものをうつくしいと思う心も捨てたくなかった。もしも、その二つの要素を両立させることができるのなら。人を愛して愛されるみたいな、お互いを特別な人間だと認め合うみたいな、ふたりでいてもひとりきりでいられるみたいな、そんな健康的な関係性が、明日を生きていくための理由を、わたしに授けてくれるのなら。

 

この世界は、呪いで溢れている。成長する中で、呪いを避けることはむずかしい。たくさんの人間の唇が紡ぎ出す呪いはわたしたちに囁いてくる。あれはおかしいよ、これは危険だよ、それは変だよ。口々に囁かれる呪いは、やわらかでしなやかなわたしたちの心を、一つの鋳型に当てはめて蓋をしようとする。多数派に従えば、もう何も考えずにいられるように、疑問を持たずに生きていけるように。

 

「幸せになればきっときみはつまらなくなるだろう」、その言葉はわたしにかけられた呪いだった。不幸になりたかった、かんなで削られたかった、ぼろ雑巾になって踏みつけられたかった。だけど、一生分のちからをキーボードに込めて、わたしはここに宣言する。わたしは幸せになりたい、わたしは幸せになりたい、わたしは幸せになりたい!ぬるく続くこの地獄を終わらせて、大好きなきみとふたりで見たことのない景色を見に行きたい。呪いを解くのはきみではなくこのわたし。救世主はいなくても、わたしの世界はきっと革命できるのだから。

 

不幸と芸術の相関関係、目隠しと焦燥を超えて。