あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

コミュニケーション不全症候群

 

これはただの自己陶酔の話です。

 

 

いつでもきみに近づきすぎるか離れすぎる、私のコミュニケーションは0か100かしかない。だから私は好きな人に嫌われる天才。

 

気になる人にほど執拗に迫るし、相手のことを勝手に神様みたいに理想化して、そこからずれると途端にきみにがっかりする。きみが欲しくてたまらないのに、手に入ったら完全な終わりが怖くなって、わざときみを傷つける。縋り付かれるほど執着を感じるし、執着のない愛なんていらないから、泣き顔を見るまで何度も繰り返し。私はどうしようもなく自分勝手で、きみより誰より自分のことが好きだから、付き合った相手すべてをぼろぼろにしてしまう。私はきみに与えることなんてできない。私はきみから奪うことしかできない。そんな愛し方しか知らなかった。

 

こんな私はきっといつまでもふつうに幸せになることなんてできないんだろうし、そのことについて考えることは基本的に避けている。何故なら本当に至極厄介なことに今の自分をまるごと愛しているのは私だけで、変わることをおそろしいと感じているのも私だから。それでも時には好きな人が幸せであってほしいとか思っちゃうこともあるし、私ときみで幸せにしあうみたいな建設的な関係にも憧れちゃうことだってあるし、破壊衝動を捨ててこの瞬間的な幸せを持続させることにエネルギーをつぎ込んだならどれだけ楽になれるのだろうとも思う。でもそれは私の中ではちっともうつくしい関係ではなくて、余生の暇つぶしにしか見えなくて、本当に残酷で最低なことだけれど、2人の間にできた子供に自分たちの全ての時間を吸収されてしまうなんてそれこそ何より不毛だよなんてことを考えている、ずっと。

 

物語と違って、現実はちっともロマンチックじゃない。そこにあるのは達観と諦観の連続で、ぬるくて怠い退屈な日常が延々と続いていくだけ。そのことが本当に寂しくて切ない私はそれでも夢を見ようとしてしまう。先の見えない闇の中で、いつまでもあなたとふたりぼっちで手をつないでいたい。そんな甘美で不健康で満ち足りた夢、絶対に叶うわけないのに。まともになんてなれないならレンアイなんて高尚な所業から身を引いてひとりぼっちで生きたほうがいい。そうやって自傷するふりをしてきみの興味を惹こうとしているところもダサいし、本当にみっともないんだよ。どうして私は何ひとつ普通にできないのかな。もう全部苦しいし、何処にも救いなんかない、分かってたじゃんそんなこと。もう10年も前からずっと、同じところをぐるぐるとしているだけなんだから。

 

A子ちゃんの話

 

A子ちゃんは私の初めての女の子だった。

 

初めて好きだと思った女の子で、初めて永遠を誓った女の子で、初めて手放した女の子、それがA子ちゃんだった。きちんとA子ちゃんを愛せなかったせいで、きちんと恋を失うことができなかったせいで、5時間かけて新幹線に乗り故郷という場所へ赴くたび、私はいつも懲りずにA子ちゃんの面影に出会ってしまうし、その度ばかみたいに胸を締め付けられてしまう。待ち合わせて歩いた夕焼けの帰路、キスを交わしたツツジ畠、河川敷を駆ける二人乗りの自転車。あの小さな田舎町の至るところに狂おしいほど私のA子ちゃんが詰まっている。センチメンタルという自傷に抉られる度、A子ちゃんは永遠に癒えることのない私の傷口みたいだと思う。

 

A子ちゃんはそもそも、スクールカースト格下の私が近づけるような女の子じゃなかった。美術の授業でこわい女の子にはじかれたA子ちゃんが仕方なくぼっちな私とペアを組まされることがなかったら、遠いところで息をしていた私たちが交わることなんてなかったし、恋人みたいになるなんてそれこそ思いもしなかった。お互いの上半身の輪郭を筆でなぞっているときだって、私はただただあなたに攻撃されることを恐れていた。A子ちゃんのような、脳みそが筋肉でできているような女の子はいつでも私を傷つけるから。だけど授業が終わるとA子ちゃんは私のキャンバスを覗き込んで「何これ、あーしこんなに美人じゃないやん」って言ってふつうに笑った。A子ちゃんが描いた私も私じゃなかった。上手い下手とかそれ以前に、私は学校でこんなに明るい笑顔を浮かべて幸せそうに笑ったことなんてない。だけどわからないのなんて当たり前だ。だって私たちはそのとき、お互いのことを何も知らなかったから。

 

その日からA子ちゃんはなぜか透明人間の私に話しかけるようになった。もしかしたらずるいのかもしれないと思っていたA子ちゃんははじかれなくなったあとも私にちょっかいを出してくれた。私は徐々にA子ちゃんに懐いたし、A子ちゃんの愛情をもっともっと欲しがった。A子ちゃんは私の面倒な執着を受け入れてくれて、そればかりか、私のことが好きかもしれないという優しい勘違いをしてくれた。A子ちゃんだけが私を見つけてくれた。あの頃、A子ちゃんだけが、こんな私をぬるい地獄から救い出してくれる神様だった。

 

A子ちゃんは、運動ができて、勉強ができなくて、キャッチボールが趣味で、いつでもださいポパイのトレーナーを着ていて、キティちゃんの健康サンダルがお気に入りで、駄菓子の風船ガムが好きで、1日3食良く食べて(時には私の残した分まで食べて)、考えることが嫌いで、ショートカットが似合って、ガタイがよくて、ばかなことをして人を笑わせることが好きだった。A子ちゃんは私とはまるで違っていた。私とはまるで違うところが好きだった。おままごとな恋愛ごっこと言われても、本当にあなたのことがとても好きだった。

 

電車で2時間もかかる場所にある水族館のゆらゆら光る海月水槽の前で、いつか結婚しようねって約束をした。二段ベットの下で毛布にくるまりながら、死ぬときは一緒に死のうねって指切りをした。どうせそんなの叶わない約束だと達観することができない程に私は子どもで、A子ちゃんが私の為に指輪を買っていてくれたことなんて知らなかった。2人で迎える3回目のクリスマスイブが来る前に、私はあなたを手放したから。

 

そして私はやっぱり、あの小さな田舎町を捨てたし、A子ちゃんもやっぱり、あの小さな田舎町に留まった。私たちの奇跡みたいな交わりは偶然の産物でしかなく、絶頂は瞬く間に過ぎ去ってゆき、私たちは手をつないだまま下り坂を転げ落ちることしかできなかった。異物同士が穴を埋め合うなんてそんなのは夢物語だ。私たちの精神がまるっきり異なっていて、だからこそのさよならだったことも初めから予感できていたのに、過ぎ去った過去へのありふれた感傷などナルシスティックな所業だとわかっているのに、どうして私とA子ちゃんは今も手をつないでいられなかったのだろうと、何度も繰り返しぐるぐると考えつづけている。何の意味もなくても。

 

きっと今頃A子ちゃんは私なんかのことは忘れて一人で勝手にそれなりに平凡につまらない感じに幸せになってくれているのだろうし、そうでなければ私が困る。だけど私の手の甲に刻まれたA子ちゃんのイニシャルは一生消えないし、A子ちゃんの亡霊を探し続ける私の悪癖も治らない。来た道を振り返ってみればいつもあの子が私の名前を呼んでいる。だからA子ちゃんは私のファムファタルで、きっと一生忘れられない忘れたくない女の子なのだと思う。

 

 

 *

 

どこにでもある平凡な恋の始まりと終わりについて。A子ちゃんがよくカラオケで歌っていたスキマスイッチの藍という曲を聞きながら書きました。 

 

さよなら2017、はじめまして2018

 

さようなら2017年。今年はどんな一年だった?

閉塞と希望の一年だった。

 

学生という青春が終わり、憂鬱の箱に詰め込まれる社会人になった。私は何もできなかった。信じられないくらい役立たずで覚えが悪かった。私は頭でっかちで根性なしのつまらない人間だった。

 

職場には魅力的な人が多かった。一点に秀でていたり、地道に努力ができたり、誰とでも気軽に気楽に話せたりした。私には絶対できないことが、みんなにはふつうにできる。その差が多すぎて、大きすぎて、いくら頑張っても手が届かないように思えた。だけど同時に、それは努力ができない私の退屈な言い訳にすぎないのだとも思った。死ぬほど憧れて、それからやっぱり嫉妬して、最後には落ち込んだ。

 

私の持っている能力ではどうにもならないことばかりだった。精神がぐらつく度、同じところをぐるぐるして、ごねたり泣いたり諦めたりして結局、肥大化し続けていたプライドを過去に投げ捨てた。毎日、その繰り返しだった。一日がとても長かった。暗い顔をして会社に行き、唇を歪めて愚痴を垂れ流すような人間だけにはならないと思っていたのに、いつの間にかそんな人の気持ちが痛いほどよくわかるようになった。

 

感情を殺さなければ、うまく生きていけないのだと思った。PDCAサイクルを繰り返すたび、生産性や効率化を叫ばれるたび、愛している私のかけらが死んでいくのが分かった。

 

自分を変えたくなかった。変わっていくことがおそろしかった。だから仕事が終わって家に帰ったら、アルコールとため息の代わりに物語を書いた。物語の中で、私は私を傷つけるすべてのものと戦い、実体のない敵をこてんぱんにやっつけたかった。キーボードをつよく叩いている間だけは、背後に迫る恐怖から逃げられるような気がした。

 

物語のことをもっと知りたくて、シナリオセンターというところに通い始めた。私と同じように物語が好きでたまらない人ばかりだった。そこには共感と理解があふれていた。生まれて初めて言葉が通じたみたいな奇跡が、嬉しくてたまらなかった。中には私の書いたものを褒めてくれる人もいた。面と向かっておもしろいねと言われたのは初めてで、そのたった6文字だけで救われて、指が小刻みに震えた。15つの物語をつくって、その内の2つを文学賞に投稿し、もう2つは文学フリマで販売した。

 

ここが通過地点ならどんなにいいだろうと思う。ものになるかは分からなくても、光の方だけを目指して、無我夢中で走りつづけたい。神さま、どうか今だけは、この夢を終わらせないで。嗚呼、いつか、誰の手にも届かないところで、たった一人光りつづける孤独な星になれますように。

 

仕事はやっぱり辛くて、物語と戯れることもやっぱり楽しい。

 

その中でも、沢山のひとに出会って、知らなかった思想に触れた。ひとに甘やかされて、傷つけて、憧れて、痛めつけられて、がっかりして、無視されて、煽られて、振り払われて、それでも懲りずに好きだと思った。

 

私には自分以外の他人を大切にする方法がよくわからない。それでも、不器用でも、下手くそでもいいから、愛されるだけじゃなくて、ひとを愛してみたいと思った。ひとはずるくて、みっともなくて、だけどやっぱりかわいくて、恋をせずにはいられない。

 

たとえゴミ箱みたいに蹴飛ばされても、私はあなたのことが好き。

 

雪の降る夜が明けたらまた新しい年がやってくる。来年はどんな一年にしようか。大凶だって超大吉にしてみせるよ。感情の波みたいに、何処へ向かうか分からない、この起伏ある人生を愛してる。

 

初めまして、2018年。

こんな私だけど、これからもよろしくね。

 

 

 

2017年の「あいしてる」

 

【映画】

・「あゝ、荒野

・「わたしたち」

・「お嬢さん」

・「彼女がその名を知らない鳥たち

・「勝手にふるえてろ

・「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

 

【漫画】

阿部共実「月曜日の友達」

山本さほ岡崎に捧ぐ

・町田翠「ようことよしなに」

椎名うみ青野くんに触りたいから死にたい」 

紺野キタ「Lily lily Rose」

 

【演劇、美術、音楽】

・ままごと「わたしの星」

・長島友里枝「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」

銀杏BOYZ「日本の銀杏好きの集まり」

 

文学フリマを振り返って

 

悔しかった。その一言に尽きるのかもしれない。売れたのはせいぜい25冊前後、それも知人友人を含めた数で。別に売れたいと思って文学フリマに参加した訳ではないと思っていたけれど、モノレールで浜松町に向かう帰路、予想以上に気落ちしている自分がいて、そんな自信過剰な自分に少し呆れた。

 

おもしろくないな、と感じることがある。

 

時間を持て余した結果、段ボールから取り出した初めての自分の小説(今となってはそうとも言い切れないような駄文)を読み返しつづけて、私はがっかりした。読みづらくて目が滑るし、場面展開が早すぎるし、手グセでつなぐ語彙の粒は既視感を与えるものばかり。辟易するほど誤字脱字も多くて、こんなの売れなくて当然だよ、なんて思ってしまうくらいだった。小説を推敲するのを後回しにしてきた理由は、おそらくここにある。書いたものに自信を持てなくなればなるほど、頭の中にある平凡とにらめっこする度、「私一体何のために」という疑問に心を支配されてしまうから。

 

私は書くことが好きだ。他の部分が全部ダメでも、好きなことなら他の誰より情熱を傾けられると思っているから、皆の前で先生に長所を褒められた劣等生みたいに、わかりやすく、その一点のみに誇りを持っている。だけどまだまだ、足りないのだと思う。不足を補ったり、突き抜けたりする方法は良く分からない。だけど私の前を素通りしていく人々の視線の動き方を見て、ああ、私の作品はたぶん、私が密かに思いつづけていたとおりにおもしろくないのだと思った。

 

それでも今のところは、まだ打ちのめされていなくて、誰かの為に、とかじゃなくて、自分の為に、書くことを諦めたくないし、諦めるべきじゃないと思っている。底の見えない海に眠っている宝物と出会い、心を震わせつづけたい。いつか、ふと読み返した時に、ふかく胸を打たれるような文章を紡ぎたい。もし、指の先で、そんな魔法をかけることができたなら、その時ようやく私は初めて、魔女にかけられた呪いを解くことができるのかもしれない。身体と心をがんじがらめに縛り付ける鎖を断ち切って、この1LDKの狭くて暗い部屋の中から、光の方へと走っていくことができるのかもしれない。

 

「おもしろいって、どういうこと?」

 

答えの出ない命題を、繰り返し、何度だって、自分に問い続けたい。

私を生かしてくれた表現という化け物と、誠実に向き合っていく為に。

 

第二十五回文学フリマを振り返って。

来てくださった方、本当にありがとうございました。

 

 

友だちについて

 

友だちについて。

 

中学生のとき、お父さんから手渡されたのは「きみの友だち」という本だった。朝日新聞の書評で取り上げられていたらしい。のめり込むようにその本を読んで、そして憧れた。同時に私は、主人公ふたりの女の子の関係性に、間違いなく嫉妬していた。

 

その頃の私は、いわゆる多感な時期というやつで、親も同級生も先生も家庭教師もみんなみんな死んでしまえばいい、明日なんて永遠に来なければいいと思っていた。彫刻刀を握りしめて机に消えない傷を掘っているような反抗期テンプレ中学生だった私は、恋人よりかわいい顔より頭の良さよりとにかく何より、私の話をうんうんと聞いてくれて、本当はね、私もずっとそんなことを考えていたんだよねと手を握ってくれる女友だちが欲しかった。

 

ドラマや映画で語られるような友情は真冬に飲むホットココアみたいにあったかく私の心を溶かしてくれたから、孤独の中でぐんぐん育っていく親友のことを喉から手が出るほど欲していた。でも、これは本当に悲しいことなのだけれど、高校生大学生社会人になっても、私には本当の意味、つまり私の感覚を自分のもののように感じてくれるという意味で、精神世界を繋げることのできる友だちとの関係はあまり長続きしなかった。私たちは永遠なはずだと信じていた友だちとの間にもやがて距離ができてしまったり、ふたりなら何処にでもいけると信じていた関係が卒業と共にゆるやかに終わっていくありきたりな一過性の友情だったりした。

 

それでも、心が浮き立つような蜜月がとう終わった今でも、その内の何人かは、わがままで甘ったれで連絡不精な私と、未だに連絡を取ることを試みてくれていたりする。そして驚くことに、不安になりながら会ってみればあの頃と変わらず、もちろん種類は違えど、その女の子のことを大切に思えたりする。そういうことがある度に、私は、友情って一体、何なんだろうなと思う。恋愛と似ているけれど、やっぱり何処か違う。その子のことを考えると、胸の中にぽっと灯りが燈るような、棘やささくれのない、手放しにやさしい感情。

 

お父さんからもらったあの本に「友だちってなんなのか?」という命題を突きつけられた中学生の頃から、私はそのことについて、ぐるぐると考え続けているような気がする。人生が旅であるなら、私は今でも、心の一番深いところまで分かり合うことのできる友だちを探しているのかもしれない。互いだけの世界でべたべたし続けるなんて不健康だよ、友情なんてそういうものだよと誰かに諭される度、分かり合うなんてこと、手をつなぎ続けることなんて、本当はできないのだとしても。それでも私は、この世の不条理に争いたくて、魂の片割れを探さずにはいられないのだ。出会った途端、パズルのピースが噛み合うみたいに、私たちならぜったい分かる。運命的な恋よりも、生涯につづく友情の方が尊いもののように感じる気持ちを、この世界の何処かにいるあなたなら、きっと分かってくれますか。

 

 

「銀杏BOYZ 日本の銀杏好きの集まり」感想

今日のために生きてきたと思う。

 

夢みたいなライブが終わって、突然現実に投げ出されて、他の情報を頭のなかに入れたくなくって、はやる気持ちで夏の蒸し暑い夜を駆けた。

 

かつて峯田和伸は泣き虫で甘ったれで愛されたがりなわたしの神さまだった。XXXは全員死んでしまえばいいと思っていたわたしを唯一、許容してくれる人だった。何十年と生きているくせに童貞少年のピュアなところを持っていて、いつでも自分の愛や恋や性についてロマンチックに歌い上げる。夢や平和やつまらないと嘲笑されるワードを本気で信じているところも、そのストレートな愚直さで斜に構えた人間の態度をねじ伏せるところも、何も変わらない。彼のむきだしで個人的な音楽はそのまま、峯田和伸の一部分を構成しているピースなんだ。

 

「人間」を熱唱しながらステージへのぼる、生きている峯田和伸は幻想みたいで、10秒もたたずに心が反応して、あふれる感情に言葉を当てはめる前に涙が頬を伝った。生きていると時折、言葉をつむぐことがなんの意味も持たない瞬間に出会う。それでも人間が文字を学ぶことに意味があるとすればそれは未来の自分に今日のこの瞬間を思い出させて明日1日を生き延びさせるためだ。

 

XXもXXもXXもXXも全部許すから、明日1日を生き延びてくれと峯田は言った、そうしたらまた会えるからと言った。この世はクソだし生きづらい世界は全く変わらないし、苦しさも痛みも消えないけれど、明日を生きれば、真っ黒な世界に光を差し込んでくれる奇跡に出会う。サンプラザを出るとまんまるな満月が見えた。

 

いつだって大事に丁寧に抱きしめてくれてありがとう。