あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

私たちは決して分かり合うことができない

 

メンヘラという広範囲にわたるニュアンスの言葉は便利だ。あの子もメンヘラ、この子もメンヘラ。そうやって指差した途端、自分がその人間よりも上位に立つことができる。枠にはめて押し込んで俯瞰して、私たちはわかり合うことを放棄する。ところで私はよくメンヘラと言われる。そうなのかもしれないしそうじゃないのかもしれないがまあたぶんそうなのだろうなと思う。光よりも闇のほうが好きだし、破滅に向かってストイックに生きている人間ばかり見てしまう。

 

メンヘラな私をゴミ箱として使う人は多かった。擬似彼氏擬似友達擬似家族、どんなにがんばってみんなの代替物を演じたとしても私が愛されたがりなメンヘラであることに気づいた途端みんな面白いようにぱらぱらと散っていく。闇を通さない真っ白な光の部屋の中で先生は言った。あなたはありのままでは愛されないのだから努力をして自分を変えないといけないよ。変わらなければ私は愛されない、そうなのか、そうか、ではやっぱりディズニー映画のあの歌は虚構なのだなと思った。私のいる世界の中では、自分の欠点を矯正したり、苦手を向上させることはすばらしいということになっていて、そういった思想を素直に飲み込まなければ生きていけない。でも、変わるということは、今の自分を捨てるということだ。絶望をあきらめて、感傷を捨てるということだ。そんな風に今の自分とさよならして、PDCAを永遠に繰り返さなければいけないのなら、一体いつになったら私は今の自分をあいすることができるのだろう。そんな風だったから、私はずっと誰かに、私が私であることを許されたかったのだと思う。

 

いつも、誰にも許されないという不安に怯えていた。家族は言うまでもないが、友だちにも恋人にも、いつか「許されなくなる」という不安があったし、その不安を払拭できたことは一度もない。お姫様が王子様に救われるおとぎ話を読んでいて、すべてを見せた上で承認されるという露出狂めいた動作に憧憬を抱いたのは、もう随分も前のことだ。ありのままのきみが好きだという愛の言葉は世界にありふれているのに、私のありのままを許してくれる人はこの世界のどこにもいなかった。当たり前だ、こんなお荷物に構っているほどみんなは暇じゃない。人間は自分の人生を裕福にしていくために残された時間を精一杯使いたいのだから。だけど、時々、私のことを見ようとしてくれる人がいて、本当に時々、私もその人のことを見ようとしてしまうことがある。

 

たぶんきっと、私たちは決して分かり合うことができない。きみが私を分かってあげることができないのと同じくらい、私もきみを分かってあげることができない。それでも希望のような蝋燭に何かの間違いで火がついて、胸の中に燃えてしまうことがある。闇の中を照らすようなこの眩しい閃光が恋だというなら、きっと私は今この瞬間に、あなたに焦がれているのだと思う。どうしようもなく、気がふれてしまいそうなほどに、欲しいものがあることは幸福だと言い切りたい。私の全部をさらけ出してみたいし、あなたのことも全部知りたいし、つながりあえた奇跡みたいな瞬間の景色をあなたと一緒に見ることができたなら、この世界の悲しみも寂しさも、やり過ごしていけるような勘違いがきっと生まれるのだろう。そんなことを思ったのは、あなただけだから。ダメになったときの保険なんてかけないで、ちゃんと私の目をみて、本音だけで答えてよ。すり減ってすり減ってすり減ってぺらぺらになってからしぬんだろうなって思ってたけど、私、あなたになら消費されてもいいよ。傷つけられても、締め付けられても、たぶん、好きだよ。勘違いかもしれないけど、そう思う。