あいしてるのブログ

この物語はフィクションです

拝啓、ボンタンアメ様

 

気づけば個人的なことばかり書いている。ある人に「自分のことを書き尽くしたら外の世界に目が向くはずだ」と言われたので、今はこのまま潜ってみようかと思っている。自分の見えない心の底へ、二度と浮かび上がれないくらいに深く。

 

誰も読んでいないと思うので少し恥ずかしいけれど、書いた小説もどきである「さよならノスタルジー」(カクヨムに掲載)はA子ちゃんへ、「スポットライトを浴びながら」(同省略)はボンタンアメへ向けた、渡せなかったラブレターであり、同時に離別の花束でもある。A子ちゃんとボンタンアメの二人のファムファタルは私の人生においてものすごい影響力を持っていた。ただし、二人が持つ魅力の種類はまるで異なっている。例えるとしたら、A子ちゃんは、いつでも人が集まってくるサーカス団の愛されピエロ。ボンタンアメは、どんなに突き放しても後ろをついてくる小さな妹。鬱陶しくて、でもやっぱり可愛くて、私には妹はいないけれど、もしも妹が居たらこんなふうだったんじゃないかなあと思っていた。もう二度と戻らない、過ぎ去った蜜月の頃。

 

人間関係を何かにつけ破壊してきたことについては弁解する余地もないけれど、遅かれ早かれボンタンアメとはやっぱりお別れすることになった気がする。ある部分において私たちは決定に噛み合わなかったし、与え合うみたいな関係を知らなかったし、最終的に彼女を傷つけて痛めつけられて放り出すことしかできなかった。滅茶苦茶になるのは私か、ボンタンアメか。この二者択一を迫られて、結局彼女の手を離した。初めから引き受ける覚悟なんてなかったくせに、醜悪で最低で非道な人間だ。私にしては珍しいことにこれは自己憐憫や正当化ではなく、反省しているつもりだ。

 

あの頃、私はめちゃくちゃカッコ悪かった。何がカッコ悪かったかって、「特別になりたい」とか「承認されたい」とか「夢をみる」といった類の言説をカッコ悪くてダサいものだと決めつけていたところが。朝井リョウ「何者」という小説に出てくる拓人そのもので、何者かになる為の努力の過程を綴る知人のツイートを見る度、苛々したり見下したり嘲笑したりしていた。今なら分かる。些細なことにあんなにも心乱されていた理由は、本当はあんな風に自分を信じられる子たちのことが羨ましくて、そっち側に行きたかったからなのだと。

 

努力しても特別になんてなれない自分の非力さを思い知らされるのが怖かった。中学校の頃教室に漂っていた厭世的な空気をいつまでも引きずって、「叶わない夢なんかみてばかみたい」だと周囲の人間から笑われるのが怖かった。星に手を伸ばしてもがく同年代の子たちを横目で見ながら、何もできなかったし、やらなかった。「夢をみる」勇気も覚悟も体力も全然なかったから。そんな生き方は本当にカッコ悪いし、みっともないし、恥ずかしくて、今思い出しても顔から火が出そうだ。ボンタンアメはそんな私のコンプレックスの起爆剤のような女の子だった。

 

人間は自分と全く違う人間と、自分と全く同じ人間、どちらかを愛する傾向にあるんじゃないかと思う。ボンタンアメが偽物で借り物で空っぽな私のことを丸ごと好きになってくれた理由はたぶん、自分と良く似ているから。当時自分のことが死ぬほどきらいだったからか、自分と良く似た思考のクセを持っているボンタンアメのことが鬱陶しくて仕方がなかった。わがままで、愛されたがりで、常に満たされず、ありのままの承認に飢えていて、自分以上に誰かを好きになることができない。自分の痛みには敏感なのに他人の痛みに鈍感で、うまく人とコミュニケーションをとることができないところなんかもそっくりだ。でもたぶん、私とボンタンアメは誰よりも至近距離にお互いを感じていた。一緒にいて穴が埋まらないことが分かっていても、あなたは私で、私はあなただったから。

 

とても少なかったけれど、夕焼けの海が穏やかに凪いでいるような優しい時間もあった。何てことない対話も、言葉のキャッチボールも苦手なんだなって手に取るようにわかるから、ボンタンアメが「ねえ面白い話して」と言う度、まるで自分を見ているようで吹き出しそうになった。一緒にいすぎて話すこともなくなってくると、ボンタンアメはいつも私の名前をふざけた風を装って何度も呼んだ。頬を膨らませて怒る目は怯えているようにも見えたけど、私はわざと名前を呼び返さなかった。何処までもつきまとってくる犬みたいな彼女のことがかわいくて、そんな風にボンタンアメをからかうのが好きだった。失恋したのは私じゃないはずなのに、今でもそんなことばかり思い出している。

 

私たちは良く似ていたけれど、一つだけ、違うところがあった。ボンタンアメには何よりも好きなことがあった。好きなことに向かって、無謀とも捉えられる挑戦をしようとしていた。自分の異常な部分を削って普通になるしかない、それが社会に出るということだと思い込むようにしていた私にとって、自分を変えずに好きなことで生きることを許されたがる彼女のそんな態度は鼻につき、同時に妬みの対象にもなった。私たちはお互いを批判したし、面と向かってひどい言葉を言い合ったこともある。たぶん、私がボンタンアメに言った言葉は、同時に私の方をも向くナイフだった。そんな致死力の高い喧嘩ばかりして、結局最後は絶交みたいなお別れをするしかなくなった。世界が狭くて、すごく幼くて、何にも分かってなかった。どうにかできたんじゃないかと何度も反芻をして、でもやっぱりできなかったと諦める。

 

あれからずいぶん時間が過ぎたのに、ボンタンアメが私に残してくれた忘れものは、胸の中で眩しく光ってちっとも消える気配がない。別れは一瞬なのに、彼女との出会いは永遠そのものだった。ボンタンアメという女の子の気配は、書く物語ほぼ全てに潜んでいるし、それだけ彼女は私にとっておもしろく(これは女の子に対してつかう究極の褒め言葉)て忘れられない女の子なのだ。やっぱり悲しいことに、私たちはもう終わったのかもしれないけれど、いつかもう一度会えるなら、そんな日がもう一度やってくるなら、同じ目線に立って、ちゃんと向かい合って、ボンタンアメの名前を呼べたらいいなと思う。なんて少し(かなり?)青すぎるだろうか。ごめんねとかありがとうとか見てるよとか見てほしいよとかもう全部忘れちゃったのとか、全然意味のないことを言って相変わらずだねと笑われたい。

 

最後に一言、ボンタンアメへ。ボンタンアメの生はそのまま、きっと私みたいな人間の希望なんだよ。だからどんなにみんなに否定されたって、私はボンタンアメをまるごと承認する。ありのまま生きようとしているから、ありのままのきみだからきれいに光るんだ。ボンタンアメが、今のままのかたちで、世界から肯定される女の子になれるように願ってる。誰よりも不器用で慢性的に生きづらいあの子の元へ、心休まる瞬間が、一瞬でも長く訪れますように。あの頃ばかな意地を張って伝えきれなかった愛を込めて。

 

ヘラってるのなんて分かってんだよ

 

きみみたいな人間生きてる価値ないよ。

 

本当はみんなそう思ってるんでしょう。通勤電車のおじさんの眉間に浮かぶくっきりしたシワ、芸能人の不倫騒動で荒れるツイッターのリプライ欄。みんな全然余裕ないし、身の回りのことで精一杯だからさ、他人の欠点に目をつぶれるわけないよね。フラストレーション溜まって、自分より価値のない人間を見下さないわけないよね。ぐだぐだ言わずに悪い部分があるなら努力して矯正しろよ、「自分たち」みたいに生きようとしろよって思ってるんでしょう。そんな目で見られなくてもちゃんと分かってんだよ。

 

でももう嫌なんだ。毎日を死んでるみたいに生きるのは嫌なんだ。私昇進とかキャリアいらないし、どれだけ生きづらくても鈍感にだけはなりたくない。だってみんなのいう「つよい」って、ネガティブな感情全否定のポジティブ教に自分を洗脳して、痛覚を切り落とすってことでしょう。感情の波を平坦に保ってすぐにスイッチ切り替えて、効率的にロジカルに考えるってことでしょう。プライベートと仕事はつながってるんだから、どちらかに真剣になればなるほど偏りが出てくるに決まってる。そして人間は知らない内に変わってしまう、気づけば取り返しがつかないほどに、中々元には戻れない。

 

人よりも動かされやすい感情感覚に誇りを持っている。そういう部分を失ってしまうなら、わがままだって分かってるけど、私はこのままでいい。嫌いなものを好きになったところでほしいものは手に入らない。それが自分の愛してる核だから、これだけは守りたい。百歩譲って他の部分は妥協したとしても、この核だけは変わることを拒否したままピーターパンに出会いたい。

 

そんな私はやっぱり間違ってるのかもしれない。自分のやりたいことをやりたいっていうのは甘えで、仕事を好きじゃないって発信すること自体大人になりきれてないってことなのかもしれない。だって最近、ものすごく不安定になりやすい。なりたい自分を考えていなくちゃ立っていられなくなりそうで、何度も同じことばかり言いつづけるみっともなさを客観視することができない。自己肯定感がみるみる間にすり減って、自分をちっとも信じられなくなる。才能なんてあるのかな。10年後も同じ努力をつづけられるのかな。未来ばかり志向したって欲しいものなんて手に入らないのに、それでも明日の自分に期待をしている。

 

今日、頑張らなきゃなと思う。死ぬほど、死ぬまで、そういう日々を覚悟する。そうしなきゃたぶん絶対、私が星になることはできない。

 

誰でもいいから生きていていいんだって言ってよ。コンテンツをつくれないならエンタメになるから、私のこと承認してよ。生きてるって思いながら生きたい。いつになったらそんな風になれるのかな。

 

私の目指すひかりはすごく遠くに見えていて、ちっとも手が届きそうにないよ。

 

 

ジェラシーと呪詛とひとすくいの光

 

何もかもうまくできる人、というのは一定数、何処にでもいる。そういう人は、勉強も、スポーツも、人間関係も、仕事も、趣味も、やることなすことすべて難なくこなすことができる(ように見える)。何もかもうまくできない人代表の私は、そんな人のことが羨ましくてたまらない。そうなりたいんじゃなくて、そんな人が持て囃されるという事実が妬ましいのだと思う。

 

一般的な価値観として、社会人として、正しい、正しくないの区別は、やっぱりある。その上で、人よりも尖っていたり、できなかったりする部分があるということは、苦しい。会社に入って成長するということは、ある一定の型に自分を当てはめなければならない(見せるといったほうが適切なのかもしれないが、どちらにしても根幹は同じ)ことだと思う。大方、会社が定義する「理想の社会人像」はそんなに大きくは違わない。人と気軽に話せて、改善点を見つけて努力ができて、苦しい節目に差し掛かっても前向きで、体力と精神力があって、すぐに気持ちを切り替えられる。棘もアクもない、明るくて元気でバランスの良いポジティブ人間。

 

誰かに言われなくてもわかってる。自分がそうなれないことも。そうなりたいなんて心の底からちっとも思っていないことも。大学の頃は思うがままに考えたり、感じることができたし、それが許される環境だったけれど、入社してもうすぐ一年が経つ頃になってようやく気付く。ああ、そういえばこの社会は減点方式で、鋳型にはめた多様性もどき程度しか受け入れてもらえないのだったなということに。

 

思考は制限できないと思っていた。誰に何を言われても、頭の中だけは自由だと信じていた。でも間違っていたのかもしれない、時間も環境も人間を変えていく。少しずつ、会社の定義する「理想の社会人像」が自分の「理想の社会人像」に近づいて、それが「理想の人物像」とイコールで結ばれかかっているのが分かる。望む、望まないに関わらず、1日8時間、会社にいる生活は私の心を変形させる。こわい。おそろしい。本当にどうしてこんなに生きづらいんだろうね。きっとあなたがこういう性格だからなんだろうね。そりゃそうか。でもできる限り、私は自分を変えたくない。それがどんなに下らなくても。

 

この考え方は、正しい、正しくないに当てはめたら、きっと正しくないほうにに傾くのだろう。ぐだぐだと並べてはいるけれど、単純に成長するということを諦める、つまりは努力を放棄しているだけではないのか、という声がすぐ耳横で聞こえてきそうだ。でも、そうじゃないのだ、多分。自分が本当に納得して、心からそうなりたいと思える「変化」なら、甘んじて受け入れる。結局、本気を出して考えたいのは、マンホールからのドブネズミの生存戦略。バランスのとれた人間だけが魅力的だと感じられるこの社会で、私のような人間がどのように生きていくべきか、ということ。日本中のどこかに、受け皿はあるのではないかと思う。そうじゃなければこの世に生きる希望なんてない。

 

心と身体を締め付けるような日々から飛び出して、どこまでも遠くに走っていきたい。後ろ向きな青春を終わらせないために、つまらない命を削って引き裂いて、線香花火の赤い玉を読み飛ばされる文章に注ぎ込みたい。なりたい自分はどんどん遠ざかる一方で、どれだけ手を伸ばしても掴めそうにない偽物の蜃気楼だけれど、手のひらが何度空を切ったって構わない。愛してやまないものの為に生きたい。

 

変わらずにいることは、変わろうとすることと同じくらい難しい。きみはいつまで絶望を愛し抜くことができるだろうか。きみはいつまで希望に迎合せずにいられるだろうか。きみはいつまで自分を貫くことができるだろうか。「成長」とか「変化」とかいうものを、誰かに評価されることを期待するんじゃなくて、私が、私自身が、うれしいものだと心から感じられたらいいのに。そうなるべきだとか、そうならなきゃいけないとかじゃなくて、あんな風になりたいとつよく夢見て、適切な努力ができる30歳に、40歳に、50歳になりたい。

 

光のアイドル

 

これまで私がアイドルに傾倒した経験は二度ある。一度目は「彼女」。薄氷の上に立っても尚舞台の上で舞い続けるぎりぎりの笑顔に狂わされた。二度目は「彼」。無理が垣間見えるほどの底無しの明るさに暗い幻想を見た。「彼女」も「彼」も、現実と妄想の間に存在する宙ぶらりんな私たちの気持ちを吸収して、身体を包む闇を打ち消して一層つよく光るアイドルだと思う。本当のことなんて決して分かる筈ないけど、本当のことなんて決して分かる筈ないから魅力的なのだ、たぶん。

 

アイドルって、一体何なんだろう。この問いに対して一体何人もの人間が仮説を立ててきたのだろう。アイドルはそれだけ私たちの知りたい欲求を掻き立てる存在であることは間違いない。先週末に観たとあるアイドルのライブが個人的に非常に衝撃的だったので、ここに書き記してみることにする。

 

ライブが始まって数秒立たない内に、「私は一体何を見せられているのだろう」という違和感が身体を貫いた。まず、歌詞の空虚がおそろしかった。表面的にそれっぽい言葉をつなぎ合わせただけの歌詞で、そこには意味もメッセージ性も現れない。心に引っかかる棘がない代わりに永遠に平坦に楽しんでいられる、砂糖菓子のようにさっと胸の中で溶ける音楽。歌うことに何のためらいもないのだろうかなんて邪推してしまうほどに、それは空虚な音色がした。

 

パフォーマンスがどうだったかというと、こちらもやはりふんわりと楽しいだけで、一秒空かず照らされるパチンコのような照明が浮ついた空気を守っていた。表情や言葉や立ち居振る舞いその全てが表層的でしかなく、平熱のままビジネス的に行進する舞台を見つめながら、多数派が手を挙げるメジャーの世界の中でトップアイドルとして生きることのおそろしさにめまいがした。内面を一切見せず、瞬きの一瞬の隙間にさえ仮面を脱ぐことなく、うつくしくきれいなまま枠の中を決してはみ出さない。自分たちのイメージを保ち続けて生きるアイドルたちは、私たちの欲望を飲み込んで光の中に立っている老成した化け物のように見えた。

 

舞台照明が落ちたあとも、私はあのアイドルのファンがあのアイドルのどこに心惹かれるのかがよくわからないままだった。自分たちが見たいものではなく、ふつうに生きている人たちが見たいものを見せるアイドル。平均で標準な欲望の覗き鏡は、それゆえに無個性にさえ見えた。彼らは闇を夢見る隙を観客に与えない代わりに、永遠に完璧な偶像として誰の手も届かない場所に光臨する。享楽的に軽すぎる存在を通して、私たちは何かを考えることができない。現実の人生の重さをひとかけらもまとわない代わりに、感傷を掻き立てられる部分が少なくて、だからきっと私はあのアイドルに傾倒することができないのだと思う。

 

こういったアイドルの消費のされ方は徹底的に美意識とは反するけれど、あのアイドルを包み込む不可思議な退屈さをこれだけ多くの人間が支持するのであれば、少しも勝ち目なんてないのではないだろうか。鋳型に詰め込まれて作られた人造アイドルは、日常系アニメを見ているときのような居心地の悪い不気味さを感じさせた。トップランナーとして走り続ける重圧が彼らをこんな風に生かしたのかは知らない。闇の見えない光だけの真っ白な世界の中で、あのアイドルたちは一体何を考えているのだろう。

 

はみだせないゆとりのなんちゃって自己分析

 

毎日、目覚ましをかけて朝に起きて、毎日、肌が触れそうなほど密着度の高い電車に乗り、毎日、8時間近く仕事をして、毎日、どんよりとつかれきった身体で家に帰る。ご飯を食べてお風呂に入ったら、自分が自由に使える時間といったら1日3時間もないだろう。一体日本のどのくらいの大人が同質の感情、生活、時間の中に生きているのだろう、と思う。退屈な灰色をしていて、変化もない代わりに危険もない、ルーチンな平和。働くってなんなんだろう、と学生の頃から考えていた。自分の時間を引き換えに、生活していく為のお金を得ること。そんな風に割り切れたらどんなに楽だろうと思うけれども、できない。

 

いつか編集者になるのが夢だった。編集者になって、おもしろい本をつくりたいと思っていた。漫画を専門とする小さな編集プロダクションでアルバイトをして、そのまま社員になれたらラッキーだなあとぼんやり考えていたけれど、そんなに簡単に事は運ばなかった。タイトルにあるように思い切れない私は大きなミスをしない代わりに、大きな利益を生むこともない。わざわざ雇うほどの価値はそのときの私にはなかったのだろう。そして多分今もない。全然ない。

 

はみだせないコンプレックスというようなものが、昔から私にはある。何か特別なもの、それは能力だったり夢だったりすると思うけれども、そういうものに手を伸ばすためにはそれなりの覚悟がいる場合が多い。持っている何かを捨てて、持ってみたい何かを得る、シンプルなつくりだ。けれども私の思考は本当に平凡なのだと思う。頭ではいくら分かっていても、手持ちのカードを捨てないまま、手持ちのカードを増やしたくなってしまう。なぜそうなるのかというと、結局はこわがっているのだ。ボーナスがいくらかとか一年の内の休みが何日あるかとか、そういうぼんやりした安定となんとなく幸せになれるような予感を手放して自分が不安定になることが。本当にほしいものにこっぴどく振られたときに、自分が好きだったもののことを嫌いになってしまうことが。努力を貫けない中途半端な自分に、いやでも無理やり対面させられてしまうことが。あれこれ先回りしてこうなるかもしれないと何でもかんでも心配しているけれど、結局一番こわいのは、自分だ。私は私が一番こわい。変わらない私、変われない私がこわい。

 

常識のある大人は、そんなあなたは仕事をやめるべきじゃないという。正直な大人は、そんなあなたは何者にもなれないという。誰に相談して、何を言われたとしても、結局は自分で決めるしかないということはわかっている。ぐずぐずだらだら悩んでも何も変えることはできないということはわかっている。わかっているなら自分で決めて、焦ってるなら自分で責任をとるしかない。何て重くて苦しくて楽しくない言葉なんだろう。責任。そうやってまたぐるぐるする。

 

つまらない身体と精神から抜け出して、ほしいものだけに手を伸ばせたらいいのに。何にも縛られず何処にもとらわれず、誰に何を言われても自分の欲望と美意識だけを信じられる、世界でたった一人しかいない鈍感なロマンチストになりたい。向こう見ずとも言えるような舵取りに迷わず思い切れる、そんな人に、ずっと憧れてきたような気がする。答えはまだ出ない。

 

私たちは決して分かり合うことができない

 

メンヘラという広範囲にわたるニュアンスの言葉は便利だ。あの子もメンヘラ、この子もメンヘラ。そうやって指差した途端、自分がその人間よりも上位に立つことができる。枠にはめて押し込んで俯瞰して、私たちはわかり合うことを放棄する。ところで私はよくメンヘラと言われる。そうなのかもしれないしそうじゃないのかもしれないがまあたぶんそうなのだろうなと思う。光よりも闇のほうが好きだし、破滅に向かってストイックに生きている人間ばかり見てしまう。

 

メンヘラな私をゴミ箱として使う人は多かった。擬似彼氏擬似友達擬似家族、どんなにがんばってみんなの代替物を演じたとしても私が愛されたがりなメンヘラであることに気づいた途端みんな面白いようにぱらぱらと散っていく。闇を通さない真っ白な光の部屋の中で先生は言った。あなたはありのままでは愛されないのだから努力をして自分を変えないといけないよ。変わらなければ私は愛されない、そうなのか、そうか、ではやっぱりディズニー映画のあの歌は虚構なのだなと思った。私のいる世界の中では、自分の欠点を矯正したり、苦手を向上させることはすばらしいということになっていて、そういった思想を素直に飲み込まなければ生きていけない。でも、変わるということは、今の自分を捨てるということだ。絶望をあきらめて、感傷を捨てるということだ。そんな風に今の自分とさよならして、PDCAを永遠に繰り返さなければいけないのなら、一体いつになったら私は今の自分をあいすることができるのだろう。そんな風だったから、私はずっと誰かに、私が私であることを許されたかったのだと思う。

 

いつも、誰にも許されないという不安に怯えていた。家族は言うまでもないが、友だちにも恋人にも、いつか「許されなくなる」という不安があったし、その不安を払拭できたことは一度もない。お姫様が王子様に救われるおとぎ話を読んでいて、すべてを見せた上で承認されるという露出狂めいた動作に憧憬を抱いたのは、もう随分も前のことだ。ありのままのきみが好きだという愛の言葉は世界にありふれているのに、私のありのままを許してくれる人はこの世界のどこにもいなかった。当たり前だ、こんなお荷物に構っているほどみんなは暇じゃない。人間は自分の人生を裕福にしていくために残された時間を精一杯使いたいのだから。だけど、時々、私のことを見ようとしてくれる人がいて、本当に時々、私もその人のことを見ようとしてしまうことがある。

 

たぶんきっと、私たちは決して分かり合うことができない。きみが私を分かってあげることができないのと同じくらい、私もきみを分かってあげることができない。それでも希望のような蝋燭に何かの間違いで火がついて、胸の中に燃えてしまうことがある。闇の中を照らすようなこの眩しい閃光が恋だというなら、きっと私は今この瞬間に、あなたに焦がれているのだと思う。どうしようもなく、気がふれてしまいそうなほどに、欲しいものがあることは幸福だと言い切りたい。私の全部をさらけ出してみたいし、あなたのことも全部知りたいし、つながりあえた奇跡みたいな瞬間の景色をあなたと一緒に見ることができたなら、この世界の悲しみも寂しさも、やり過ごしていけるような勘違いがきっと生まれるのだろう。そんなことを思ったのは、あなただけだから。ダメになったときの保険なんてかけないで、ちゃんと私の目をみて、本音だけで答えてよ。すり減ってすり減ってすり減ってぺらぺらになってからしぬんだろうなって思ってたけど、私、あなたになら消費されてもいいよ。傷つけられても、締め付けられても、たぶん、好きだよ。勘違いかもしれないけど、そう思う。

 

帰省

 

東京から新幹線で5時間、在来線に乗って1時間かけて、田舎に帰る。田舎という場所は合わない人間にとってはとことん息苦しい。少女だった私はいつでも不機嫌そうな顔をして、毎日のようにあの小さな町に対する憎悪を垂れ流していた。自分という生き物の持っている能力すらまともに直視できない私は、卒業をしたらこの町を捨てて、まっさらな状態で知らない土地に種を根付かせ、一人でのびのび自由に生きていくんだと、子供っぽく意気込んでいたような気がする。高校の修学旅行用にと買ってもらった赤いトランクケースをごろごろ引いて、駅の改札口から一歩出ると、傘を片手に持ったお母さんが私を待っている。幼い頃と全く同じように、変わらず私だけを待っているところを見たら、猛烈に悲しくなってしまった。これだから駅は苦手。

 

帰省の数日だけ、私はあの家の子どもに戻る。お母さんとお父さんの仲を取り持つために、わがままを言ってまるごと許される、傲慢な娘に戻る。あのふたりの間にどのような感情の高ぶりがあるのか、私はよく知らない。以前は干渉することが自分の使命のように受け止めて、やるべきことやるべきじゃないことを分別せずに見境なく首を突っ込んでいた。でもある日、親のことを考えている時間が自分のことを考えているよりも多いことに気づいて、もうそういうのやめようと思った。どうせ引き受けられないのだから、最初から甘えさせないほうが良い。そんな言い訳を考えながら、お母さんをあの人の元に取り残して、私だけがのうのうと息をしている。所詮私のあいしてるなんてその程度の偽物の愛情なのかもしれない。

 

2日目はいつも祖父の家に行く。いつ訪れても変な場所だと思う。祖父からも祖母からも生活の匂いがあまりしない。するのは暴力の匂いだけだ。あのふたりにみつめられると体中に力が入るから、別に強制されたわけではないけれど、私も弟も、いつしかふたりと敬語で話すようになった。世間一般で言うおじいちゃんの家は、もっと優しくて甘ったるい空気が流れている筈なのに、あの場所にはそんなのなかった。談笑がどんなに盛り上がっても、ぴりりとした雰囲気が決して消えなかった。

 

女であることを強制されるいちばんの場所も彼処だった。結婚はしないのかお見合い相手を紹介しようか仕事もいいが子育てこそが女の幸せ結局やってる仕事は腰掛けなんだろうそろそろ戻って介護資格でもとったらどうか今のままでは世間体が悪いだろう等々、粘りのある毒をはらんだ言葉の槍が体中を蝕んでゆく。長時間の移動後にどうしてわざわざ嫌な思いをしなければならないのかとひそやかに怒りながら、それでも私は年輪の増えた大木に意見する面倒を嫌って、おせっかいだと胸中で吐き捨てることしかできない。酒飲みの戯言だと流すこともできず傷ついたまま帰路につく、こんなことで尚も心揺らされる私はへなちょこによわいのだということを知る。

 

帰省をする度、発見させられることがある。子供の頃に戻ったり親との立場が逆転していて嬉しくなったりする。幼い頃は大きく見えたお父さんの背中が異常に小さく見えて不安になったりする。帰省する度、この場所を離れたくなくなり、帰省する度、東京の空気が恋しいと思う。田舎は鬱陶しくて、邪魔臭くて、それでも無下にできない魅力を放つ。心の片隅にはあの場所があって、いつか戦いに敗れるときの私に両手を広げて待っている。だけどまだ、あの場所へ帰るわけにはいかないのだ。何もできない空っぽな私のままで終わるなんてどうして許せるだろう。心から田舎を好きになるために、心から田舎を許すことができるように、夢や欲望を飲み込んだブラックホールみたいなこの東京という土地に精一杯私だけの根を張って、か細い子葉を育てていきたい。実が成るかわからなくても、意味なんてなくても、そんな風に光を見つめることしか、今はたぶんできないから。